寛永行幸をcg化〜その弍〜二条城天守

寛永行幸400年祭のためにCG制作を始めました。寛永行幸が行われた京都には当時の建築物が多く残っています。中村は、現物が残っている建造物は本物を見れば良いのでCG化する必要があるのか?という考えなので、今まで京都の町を再現することには消極的でした。しかし、今回、寛永行幸400年祭を開催したいとお話を頂き、CGで行幸の様子を再現し始めています。

こちらは二条城の天守です。1750年に落雷により焼失してしまいましたが、寛永行幸の時代には天守がありました。結構大きな天守で、石垣の下から見上げると迫力があります。京都は寺院と公家のまち、といったイメージで、武士のイメージがありませんが、京都に武士の象徴である天守があったら全く違うイメージだったかもしれません。

大きく美しい天守です

二条城を制作するにあたって二条城の図面と洛中洛外図屏風を参考に制作しました。出来てみると絵で見るのと全く違う印象です。特に日本画はそのままのものをそっくり映しとる、という絵画では無いので、CGにすると、なるほど、実物はこういう感じだったんだ〜とちょっと感心します。ちなみに塀の奥には御殿がありますが、人の目線からは見えません。そのための城壁ですね、、、。

こちらは天守と反対側の通り、堀川通から見た二条城。中央に天守が見えます。

寛永行幸は京都御所を出て中立売通を通り、堀川通を南下して二条城に入りました。3枚目のCGがその堀川通です。ここを絢爛豪華な公家と武家の行列が続いていたわけですね。

CG制作風景

本日は制作風景をご紹介。3dsmaxを使用して制作しています。アニメやゲーム制作などでも使用されているソフトです。

こちらは江戸城本丸御殿です。将軍や役人たちが実務などを行ったところです。天守閣は太平の世では権力の象徴に過ぎず、大切だったのはこちらの本丸御殿です。将軍が出てきて、全国の大名が「はは〜」と頭を下げる大広間や、忠臣蔵の舞台の松の廊下もここですね。

江戸城に関する本や国立博物館にあった図面などを参考にしながら10年も前から作っているのですが、本丸御殿は広大だし、なかなか終わりません。できたと思ったら、自分でミスに気がついたり、別の資料を見ると違かったりと、苦戦中。

こちらも本丸御殿です。同じように見えますが、別の日です。複雑すぎてよく分からない。

こちらは江戸城天守閣の制作風景。モデリング(形状を制作)して、レンダリング(色をつける?的な感じ)しています。3代将軍家光が建てた天守閣。これが江戸城最後の天守閣です。武器倉庫として使われていたそうです。

日本橋通りの真ん中で開かれた「雛人形市」

今日はひな祭りですね。我が家でも小さなお雛様を飾っていますが、お雛様の歴史は古く、平安時代に無病息災を祈り人形(ヒトガタ)を川や海に流した行事が起源です。その後、上流階級の少女の「ひいな遊び」という人形を使ったおままごとが流行たのが合体した形で、今のひな祭りになりました。3月3日と日にちが決まったのは室町時代だそうです。この頃はまだ公家や武家などのお祭りでしたが、平和な江戸時代に、財力のある町人から庶民にも広がりました。

十軒店の雛市。昔は自動車はいないので道の真ん中に屋台がずらっと並んでいました。

江戸の十軒店(じっけんだな)、今の日本橋室町辺りには2月から3月に雛市がありました。ちなみに雛人形市が終わった4〜5月には武者人形市、12月には羽子板市がありました。これは人形町、浅草などでもありましたが、ここ十軒店が一番賑やかでした。屋台がずらっと並んで、お雛様、お内裏様などの人形はもちろん、屏風やぼんぼり、花瓶に白酒など全て売られていました。親に連れて行ってもらった女の子はあれもこれも欲しくなってしまいそうです。今の羽子板市の様に、値段はあってない様な物、お店の人と交渉して買い手がつくと、手締めをする、ずいぶん賑やかな市でした。そのせいか、倹約令の対象になることもあり、八寸(約24cm)以上の人形や華美な装飾は禁止される事がありましたが、そこは江戸の人のこと、禁制を守りつつも上手く祭りを楽しんでいました。

現在は「ひな祭り」と言っても自宅でそっとお祝いするだけですが、江戸時代はまさに「お祭り」と言った感じです。なんだか、ドイツのクリスマスマーケットを思い起こさせます。雛市も今でも残っていたなら、日本の素敵な文化なのに、と残念に思います。

遊郭について〜その2

遊郭について〜その2

今回は遊郭、江戸の吉原を例に図解で説明します。

参考文献・双葉社スーパームック「吉原遊廓」

遊郭は一つの町になっていました。周囲は幅3mの堀(おはぐろどぶ)(1)が掘られていて、出入口は大門(2)一つでした。遊女が逃げないように要塞のようになっていたんですね。大門を入って左には町奉行配下の面番所(3)で怪しい客を監視し、右の監視所(4)では吉原の自衛団が遊女の足抜け(脱走)を監視していました。

大門を入って真っ直ぐ伸びた中央の大通りが仲の町(なかのちょう)(5)。春には桜、秋には紅葉を植えたりと、季節に合わせて花木を植え華やかに演出しました。仲の町の左右には引手茶屋(6)が並びます。

引手茶屋とは遊客を妓楼(遊女屋)に案内する店で、客の送迎をしたり、吉原芸者を招いて宴会もしました。高級花魁はここで紹介してもらわないと会えません。

仲の町から木戸(7)を通って横道に入ると妓楼が並びます。横道も通りごとに名前がついていました。(8)

妓楼にはランクがあり、上位から大見世、中見世、小見世とあり、大見世では一晩で何十両も払える上客でないと遊べません。さらに、吉原の両端、おはぐろどぶに沿って並ぶ遊郭(9)は最下級でした。

吉原の端にある九郎助稲荷(10)は遊女からの信仰が厚かったそうです。吉原から逃れられない辛い現実を象徴しているようです。

妓楼1階

いよいよ妓楼の中へ。妓楼の入口には張見世(11)があり、この中で遊女が座って客を待っていました。この張見世は格子があり、この格子を籬(まがき)といい、大見世は大籬で天井まで全てを覆う格子、中見世は半籬で上部の1/4が無い格子、小見世は上半分が無い格子で、店のランクがひと目で分かりました。ここで花魁を選び妓楼に入ります。

入ってすぐ、入口を監視するような感じで楼主(店のオーナー)がいる内所(なっしょ)があります(12)。妓楼は全て2階建てで、1階は従業員の生活の場、営業は2階でしていました。内所は2階までの吹き抜けになっていて、1階から2階全ての様子を見れる構造になっています。

内所で周囲を見張る楼主
後ろには神棚、その横の鈴で人を呼びます
大見世の花魁
大籬から客が覗いているが、ほとんどは見物客
妓楼2階

2階へ上がるとすぐに監視するように遣手婆(やりてばば)の部屋(19)があり、周囲に花魁部屋(20)が並んでいました。中央の出格子(21)には花魁用の下駄やお歯黒の道具、水差しなどが置かれていました。その横(22)には掲示物などを貼るスペースもありました。中庭(23)もあり、豪華な作りになっていました。

階段を上がると出格子
周囲には花魁部屋が並びます

炭治郎たちが活躍する、遊郭の全体がなんとなく分かって頂けたでしょうか。どこに鬼が潜み、退治していくのか今後の展開が楽しみです。

遊郭について~その1

遊郭について~その1

「鬼滅の刃遊郭篇」の2回目放送がありました。今回はギャグ満載で面白かったですね。絶対女の子には見えないだろ、と突っ込みつつ爆笑しました。

ところで遊郭ってどんなところか分からないですよね。その存在の是非は横に置いておいて、システムや構造を語ってみたいと思います。遊郭は全国各地にありましたが、ここでは遊郭の代表、江戸吉原の一番栄えた江戸時代の話です。

花魁部屋/花魁と酒を飲んだり宴会したりもして、一晩で、現在のお金で数百万使う人も!

遊郭は、音柱宇髄天元が話した通り、貧しい女性が売られて身を売る場所でした。遊女は6つの階級に分かれていました。美しく着飾り、技術と教養を身につけて最上位の花魁になると上級武士や豪商、文人などの上客がつきました。読み書き、和歌、書道、琴、茶道、活け花などなど、高い教養は大奥に匹敵したそうで、だからこそ、上級武士などの相手も務められたのでしょう。ですので、庶民の間に、吉原遊女に対する蔑視は無かったそうです。

また、吉原では、観光をしたり(女性も観光に来たそうです!)、宴会だけすることもできたので、アニメにあった様に人が溢れ、大盛況を誇っていました。そのため、吉原で働く人は多く、遊女以外の女性や若い男性もいました。だから、炭治郎たちも潜り込むことが出来たのですね。女中やお針子、吉原芸者もいたので善逸のように三味線が得意なら重宝されたでしょう。善逸は現代なら天才ミュージシャンですよね〜。素晴らしい。

2階へ上がる階段/炭治郎達が活躍します!

アニメの中で、何度か「遣手婆(やりてばばあ)」が出てきました。宇髄がイケメンなのでうっとりして炭治郎達を雇ってしまいましたね、、、。この「遣手婆」は、花魁を引退した女性が大半で、遊女の全てを知っており、客のあしらい方の指導や躾、また客をあてがうなど、遊女達の管理をしていました。厳しくて遊女に恐れられていたそう。

遊郭2階/出窓のところに花魁用の下駄や遣手婆のお歯黒の道具がおいてあります。周囲には花魁部屋が並びます。

遊女の年季(契約期間)は最長10年27歳までと決まっていたそうです。年季が明けたあと、吉原を出て自由の身となり結婚したりする人もいますが、そのまま吉原で遣手婆になったり、吉原の関係者と結婚したりと、そのまま残る人もいましたが、年季を待たずに亡くなる遊女も沢山いました。

鬼滅「遊郭編」始まる

鬼滅「遊郭編」始まる

とうとう、遊郭編始まりましたね!煉獄邸の話はちょっと、うるっときてしまいました、、、。火の神神楽の秘密や煉獄さんと炭治郎の父の秘密とかも知りたいですね〜。

最後に遊郭の映像が流れていましたが、鬼滅の刃の1話目からモデリング協力をしております。モデリング協力とは背景画の骨格となる形状データおよびレンダリングの際の素材を制作提供しています。いわゆる日本家屋のデータ協力ですので、お屋敷などが出てくると注目して見てしまいます。今回の遊郭編には多く登場するので楽しみです!

また、すごく綺麗にアニメ映像になっていて感激しました!スタッフの皆様、感謝です。これからどんな展開になるのか、楽しみになりました。炭治郎達が遊郭の中を走り回ったり、バトルしたりして破壊されちゃったりもするんだろうな〜。

前半はウルっと来て、後半はワクワク!来週が待ち遠しい!

ところで遊郭といえば、浮世絵にずいぶん描かれてきた題材ですが、その中でも異彩を放つ絵画が葛飾北斎の娘、栄、雅号「応為」の代表作、「吉原格子先之図」です。

葛飾応為『吉原格子先図』紙本著色一幅。26.3×39.8㎝ 文政~安政(1818~1860)頃。太田美術館蔵。出典wikipedia

美人画は俺以上だ、と北斎に言わしめた応為。一番近くで幼少の頃から北斎の絵を見続け、その才能を受け継ぎ、北斎の右腕として絵を描き続けました。北斎の工房で描いていたため、応為としての作品はほとんど残されていません。しかし「吉原格子先之図」の図中の提灯には隠し落款の「応為」「栄」の文字が見えます。この作品は「私の作品よ」と主張するようです。

まるで西洋画のような陰影と遠近法は、江戸時代の人の絵なの?と、驚きがあります。当時こういった表現方法をされていたということは、かなり勉強研究していた証だと思います。北斎は西洋画を集めていた、という説もあるので、一緒に研究していたのかもしれません。また、この作品を女性が江戸時代に描いていたという事が新鮮ですが、北斎とは違う色使いと繊細なタッチで、女性らしい濃厚さというか、艶かしい感じがします。

その「吉原格子先之図」からインスパイアして製作したのが吉原のCGです。妖しい光と影が吉原の色香を表しています。

吉原張店

吉原張店内部

江戸時代は「江コ時代」だった

10年前に江戸時代のリサイクルをPRしたくて作った画像です。

江戸時代は捨てるゴミは無く、全てリサイクルする循環型社会でした。現代人が必死に目指そうとしていることが、100年以上前に実現されていたんですね。

新聞広告風に作ってみました!

現在ドバイ万博で上映されている映像も江戸の循環をテーマにしています。

EDO Renaissance. Let’s return to Japan at that time

200 years ago, the people of Edo knew how to live in harmony with nature.

It means living in the same rhythm as the earth and making the same circulation as the earth.

I spent the day in line with the movement of the sun, and the things around me were made with gifts from nature such as trees, grass, and soil.

A system that cherishes everything and can recycle not only unneeded items but also ash and human excrement was created by the common people and has taken root firmly.

In order for the earth to be healthy, it is essential to have a healthy circulation in which the water that falls on the mountains as rain flows through the river and reaches the sea, becoming clouds and raining on the mountains again.

What is necessary for earthlings is to regain a circulating life.

自身番と木戸番

6月11日に投稿した「日本橋駿河町三井越後屋呉服店」にもちょろっと出てきた自身番と木戸番ですが、これはもっと近景のCGです。

右側の小屋が木戸番。その名の通り、町の入り口の木戸を開け閉めする人が詰めている場所でしたが、徐々に木戸を閉めることがなくなり、雑貨屋などを営んでいました。このCGにも木戸は無いですね。現代のコンビニのように様々な生活雑貨を販売していました。

左側の小屋は自身番。街の有力者が詰めて街の管理(自治)をしていましたが、その後、人を雇って管理させていました。

書役と定番という事務をする人、小間使いの番人(番太郎と言ったそうです)ら、通常3〜5人が詰めていて、非常時には6〜7人がいました。

番太郎はこの小さな木戸番小屋に住んでいました。昼夜、街の警備や火の用心に当たるほか、罪人を先ず自身番に繋いで罪状を問う取り調べなどもしていました。自身番の上には火の見櫓があり、火事が起こったときはその鐘を鳴らしてみんなに知らせました。

当然、給金も支払われていて、忙しい街では結構な金額がもらえたとか。

また、幕府から庶民へ通達があるときは、町奉行→町年寄→名主→自身番と伝わり、自身番の前に掲示して庶民へ伝えられました。

でも普段は平和な江戸。「自身番将棋」という言葉があって、自身番で暇潰しにやる将棋のことから転じて、「ヘボ将棋」の事を言ったそうです。町の騒動は滅多に起こらないから、呑気に将棋を指していたんでしょうね。

世界ふしぎ発見!

先週の土曜日6月19日放送の「世界ふしぎ発見!歴史を変えた名城スペシャル」で家康が作った江戸城の再現CGが放送されました!

江戸城の初代天守と五連続枡形虎口のCGです。番組でも紹介されていましたが、城の作りからその時代背景を窺い知ることができておもしろいですね。戦乱の世だからこそ作られた、大きな天守閣と敵を欺き攻撃するための仕組み。

五連続枡形虎口は5重に門を配置し、門と門の間に敵を閉じ込め攻撃します(これを「江戸返し」というそうです)。鉄壁の防御ですね。また、高さ約68m(推定)の大天守1つに小天守が2つある連立式天守は漆喰で真っ白に塗られ美しく、徳川の力の象徴でした。逆に泰平の世になってからは天守閣は再建されなかったことが、江戸時代の平和の象徴になりました。

家康の頃の大きな天守閣が現存していたら、どんな感じだったのかと想像を巡らさずにはいられませんよね。現在の丸の内ビル群の中にそびえていたら、堂々とした佇まいに威圧感を感じるのでしょうか。それとも高層ビルに埋れてしまっているのか、、、。

私は当時から残っている国宝の城は松本城しか見たことはありませんが、その重厚感と迫力、美しさは格別です。江戸城はその何倍ですので現代の大都会の真ん中でもきっと美しく威厳を持って鎮座していたでしょう。

日本橋駿河町三井越後屋呉服店

一日三千両の落ちどころ 昼の駿河町

駿河町(するがちょう)は現在の日本橋辺りです。現在その地名は失われ東京都中央区日本橋室町となっています。(少し話は江戸から逸れますが、古い地名をなぜ変えてしまうのでしょう。地名には歴史があるのに、再開発とかでその地名まで変えてしまうと、その土地に対する愛着というか思い入れが薄れてしまうのに、、、といつも思います。)この場所から富士山(駿河国)が美しく見えたことから駿河町となったようです。駿河国は徳川家ですね。ということは家康の住う江戸城からも当然見えたわけで、毎日故郷を眺めていたのでしょうか。

この作品の視点は現在の室町二丁目の交差点、千葉銀行がある場所から、三井住友信託銀行と三越百貨店を眺めています。左側が三井越後屋両替店、右側が三井越後屋呉服店です。現在とは位置が逆です。さすがの大店、今も当時も一等地に、大きな店構えです。

ご存知の通り三井越後屋は現在の三越百貨店です。当時の高級呉服店は客の屋敷に出向いて商売していましたが、三井呉服店は店で反物を選び、裏で職人がすぐに着物に仕立てました。江戸時代でも、スピード感があり、手軽に買い物できるのは喜ばれたんですね。また、当時はいわゆるツケでの支払いが主流だったのを現金で商売をしました。ツケで払うと金利がかかり、高値になるので、商品と交換に現金で支払えばその分安く済みます。また、反物は1本丸ごと売るのが当たり前でしたが、反物の切り売りを始めたのも越後屋。革命的な商売を始めてここまでの大店になったわけです。2階の窓の格子窓も手が込んでいますし、店の前に立っている看板も大きく、繁盛の証です。

越後屋の手前の小屋は右が木戸番、左が自身番です。木戸番はその名の通り、町の入り口の木戸を開け閉めする人が詰めている場所でしたが、徐々に木戸を閉めることがなくなり、雑貨屋などを営んでました。自身番は街の有力者が詰めて街の管理(自治)をしていましたが、その後、人を雇って管理させていました。交番の前身になりました。

左端にいる、樽を下に置いて何やらやっている男の人はべったら漬け売りです。べったら漬けは東京(江戸)の名産品です。大根の麹漬けで甘しょっぱくて、乳白色の柔らかい漬物です。周りに甘酒の麹が付いていて、それがベタベタするので「べったら」漬け。子供の頃大好きでした!思い出したら食べたくなってきちゃった。