結構可愛い!風景画に出てくる浮世絵の人の顔を比べてみた

浮世絵って同じような絵ばっかり、と思っている人って結構多いような気がします。江戸時代は長いので、版画の技術や流行で絵も変化しますし、また、たくさんの作家がいるので、似ているようでも絵のタッチも構図も個々に個性があります。

今回は風景画の中の人物の顔の違いを比較してみたいと思います。浮世絵の風景画が人気になったのは、北斎の富嶽三十六景からです。江戸の人は旅好きでしたが、現代のように交通手段があるわけではありませんから、実際にはそう簡単に旅行に行けないので、風景画を眺めて思いを馳せたんですね。今、私たちが旅行に行けないから、ネットで世界の観光地をリモート旅行するのと同じ気持ちです。

風景画にはガイドや絵はがき的な要素だけでなく庶民の生活も描かれていて、その表情も様々です。美人画や役者絵の様に気合が入っていなくて、決まったポーズも無いですし、素朴な4コマ漫画のイラスト的な絵が多く、興味深いです。また、当時の風俗も分かり、史料にもなりますね。

まずは歌川広重。広重は細かく一人一人丁寧に表情が描かれていて、まるで会話が聞こえてきそう。生真面目な広重の人間愛を感じます。東海道五十三次から3つ紹介します。

「東海道五十三次 関」から
大名行列のお供がホッと一息ついている様子が表情からわかります
 「東海道五十三次 草津」から 
かご屋がもめているのか、先頭の人が間違えちゃったのか、
怒鳴り声が聞こえてきそうです。
一番前の人が困った顔ですね。今にも泣きそう。同情しますよ、、、。
「東海道五十三次 御油」から 
宿場町で宿屋の女中がお客の旅人の争奪戦!
おじさんの悲鳴が聞こえてきます
「東海道五十三次 御油」から 
またやってるよ、って感じでしょうか。
呆れ顔だけど楽しそう。

葛飾北斎は風景画では、あえて顔を描かない作品が多いですね。傘で隠れているとか。やはり全体の構図で勝負です。ですが、北斎に出てくるおじさんは愛らしい。「神奈川沖浪裏」の船にしがみついてる人もちょんまげ頭しか見えないのに可愛い。北斎の顔、といえば北斎漫画ですが、それは今度、いつか。

「冨嶽三十六景・尾州不二見」から
職人さんの楽しげな表情が可愛らしい。
北斎も絵を描いてる時はこんな顔だったのかな
「冨嶽三十六景・甲州三嶌越」から
旅人が大きな木を見つけて子供のようにみんなで手を広げて木の太さを測っています。この北斎おじさん、よく出てきます。
諸国瀧廻り・木曽路ノ奥阿彌陀ヶ瀧から
崖の上で宴会ですか?2人は滝の美しさとマイナスイオンのせいか、表情は穏やかそのもの。

次は渓斎英泉。英泉は若干、人のバランスが悪いなと思ってましたが、よく考えてみたら、日本人体型、、、、。庶民はこんな感じだよね。リアルかも。表情もよく描き込まれてます。歌川広重と渓斎英泉の合作の「木曽海道六十九次」から紹介します。


「岐阻街道 桶川宿 曠原之景」渓斎英泉作
旅人が農家の女将さんに道を聞いているのか二人ともにこやかに話をしていますね。
その奥では旦那さんがキセルを手にひと休みといったところでしょうか。ほのぼの故郷を感じる絵です。
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)国立文化財機構所蔵品統合検索システム
旦那さんがキセルを手にひと休み
脱穀中でしょうか。優しそうな女将さんです。
いいひとに会えて良かったね。

歌川国芳は武者絵や戯画などが中心ですが、やはりこの時代は風景画が人気なので国芳も描いています。江戸っ子の国芳っぽい、賑わいを感じます。

東都名所・両国の涼 19世紀 横大判錦絵
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
国立文化財機構所蔵品統合検索システム
両国の花火を船で見物する客に食べ物を売っているところです。商人は売れて愛想笑い、客は酔ってるからちょっとめんどくさそう。

喜多川歌麿は少し前の世代なので残念ながら風景画は見つからなかったのですが、美人画の背景に江ノ島の風景と観光客が丁寧に描かれていて、珍しいと思います。江ノ島は江戸から気軽に行けるし、人気の観光地だったんですね。

「江ノ島岩屋の釣遊び」 喜多川歌麿 18世紀 大判錦絵
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
国立文化財機構所蔵品統合検索システム
何か見つけたのでしょうか。熱心に海を覗いています。

改めて風景画をじっくりと見てみましたが、色々な発見があって面白いですね。当時の人の間で風景画がヒットしたのが分かる気がします。

遊郭について〜その4〜吉原破壊

遊郭について〜その4〜吉原破壊

鬼滅の刃遊郭編面白いですね〜。炭治郎と堕姫のバトル、今後の展開が楽しみですが、とうとう吉原、破壊されてしまいました、、、。せっかく作ったCGが〜!なんて、以前、刀剣乱舞でも江戸の町が炎上していました。

ところで本物の吉原は鬼に壊されることはありませんが、たびたび火災になっています。江戸は火事が多かったので吉原もその例外ではありません。吉原が火災にあってしまっても、その後そのまま再建して営業を行いました。でももちろん一朝一夕に再建できる訳はありません。再建する間は仮住まいとして吉原の近くで営業していました。

この臨時の遊郭を仮宅(かりたく)といいます。幕府から許可されていますが、10ヶ月と期限が決められていました。一つの町が僅か10ヶ月で再建できてしまうなんて、当時は火事が多く、それに対しての備えが江戸にはあった、という証拠です。

仮宅の妓楼は浅草辺りに分散してあり、店の格の順序も無く、大小が雑居していました。馴染みのお客は花魁に火事見舞いに来ました。通常吉原では客にも色々なマナーがあるのですが、この仮宅は狭いためか、そういった堅苦しいことはあまり厳しく無く、繁盛していました。普段と違う様子を見に来る見物人も多かったそうです。もちろん吉原が再建されれば、新しくなった吉原を見ようと大勢の人が押し掛けるので更に繁盛しました。

炭治郎たちが鬼を退治した後も仮宅が作られ、10ヶ月で吉原が再建され、繁盛したのでしょう。

葛飾北斎 扇屋の新年 文化8〜11年頃(1811〜1814年) 大判錦絵五枚続き 
吉原の大店妓楼、扇屋の内部の様子を描いた作品。お正月の慌ただしい感じが伝わってきます。
左の酒樽に剣菱が見えます!!他の2つは調べてみましたが不明。
(仮宅の浮世絵もあるようですがこちらは通常の扇屋です。古い図版から撮ったので画像の乱れはご容赦ください)

図版の左にある酒樽ですが、三つあるうちの真ん中上にあるのは、版元「伊勢屋」のマークでした。失礼致しました。

遊郭について〜その3

今回は遊郭で働く人について。前回もお話ししましたが、遊郭には様々な人が働いています。

まずは遊女から。女衒(ぜげん=人買い)が全国を回り貧しい家の若い女性を集め、吉原に売ります。ですが、実は幕府は人身売買は禁止しているので、年季奉公、ということで10年間の奉公をする、って体裁になっていました。なので10年経てば自由の身になれるのです。まあ、幕府も実態は分かっていたので黙認ってことですね。吉原は政府公認ですからね。ちなみに、女衒で買われるのはまだマシで、誘拐されて連れてこられる人もいたとか、、、。

遊女は図のようにピラミッド型で、6段階にランク分けされました。

吉原に売られてから、すぐに花魁になれるわけではありません。吉原の遊女は厳格にランク付されていたので吉原に来てから、芸事やマナーを習い、ランクを上げます。遊郭について〜その1にも説明してありますのでご覧ください。

一番上の呼び出し昼三になると相当のセレブじゃないと会うことも叶いません。

また、吉原芸者の時に書いたように、芸事に秀でている人は芸者となりました。芸者は女芸者と男芸者がいて、三味線、唄、踊りなどで客を楽しませました。

男芸者の下のランクになりますが、幇間(ほうかん=太鼓持)という芸人がいました。いわゆるお笑い芸人みたいな人で歌舞伎役者のモノマネをしたり、話術や踊りなどで客を良い気持ちにさせました。

若い者、妓夫(ぎゆう)、喜助(きすけ)などと呼ばれる男の使用人もいました。見世番(張見世の脇で客の呼び込みをする)、二階番(遣手婆の手伝い)、不寝番(ねずのばん)油さし(行灯の油をさす)などの仕事をしていました。

宴会風景
花魁を買わずに宴会だけすることもできました。

客は遊女に対してだけで無く、こうした芸者や遣手、若い者へのチップなど払わなければ行けないのでその費用は巨額でした。なので吉原で豪遊できるのはほんのひと握り。なるべく上客を射止めたいので花魁も日々努力して美と知性を磨いていました。

吉原芸者VS柳橋辰己芸者→深川芸者

鳥文斎栄之筆 「青樓藝者撰・いつとみ」
18世紀 大判錦絵 重要文化財 
3枚続のうち吉原の芸者を描いた3枚続の中の1枚
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
国立文化財機構所蔵品統合検索システム

江戸の花柳界の歴史話です。江戸時代の花柳界の二大勢力は吉原芸者と柳橋辰巳芸者で、お互いにライバル意識が高く、張り合っていました。

吉原芸者は、元々は遊女の中から芸事の達者な人を色事から分離させて、芸事に専念させるために誕生しました。化粧は濃く着物は大柄で派手。花魁についているので気位が高かったのですが、吉原から出ることが出来ませんでした。

辰巳芸者の名前の由来は、吉原の位置からわざと反対側の辰巳方角ある柳橋に店を開き、桶屋(芸者の紹介所)が沢山存在していたところから来ました。辰巳芸者は、身売りをされた訳ではないので、芸を売っても体は売らない粋でオキャンと、その気質は正反対でした。髪を水で結い、薄化粧をして、着物は地味な小紋。歌と踊りを売りにして、色々な座敷に呼ばれ、客の好みの歌を三味線で弾くなどして、辰巳芸者の人気は高くなりました。町も自由に歩けたので町を歩いていると、男たちは「粋で美人で目の保養になる」と楽しみ、町娘は、流行りの簪や着物の柄を参考にしたりしていました。

喜多川歌麿 「青樓仁和嘉女藝者部・大万度 荻江 おいよ 竹次」
1783年大判錦絵  吉原女芸者と男芸者を描いた作品
北尾重政筆 「東西南北之美人・東方乃美人 仲町おしま、お仲」
18世紀大判錦絵
深川門前仲町の芸者二人。江戸時代中期に流行した「灯篭鬢」と呼ばれる鬢を大きく張り出した髪型が特徴的である。
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
国立文化財機構所蔵品統合検索システム


辰巳芸者の元祖「菊弥」が一番人気でしたが、他の芸者仲間から嫉妬されて、江戸から追放されてしまい、深川八幡門前で茶店を開きました。その頃の深川は、寂しい所で、岡場所しかないパッとしない所に人気の芸者が茶店を開いたのが噂になり、男の客がドット押し寄せ、深川は花柳の町に発展しました。辰己芸者と深川芸者は、同じ一人の女性が元祖ということになります。
伊藤博文などは、柳橋芸者を小料理屋座敷に呼び、通いつめていたので、明治政府高官も真似をして柳橋に通ったので、いつしか吉原は衰退してしまいます。

岩佐又兵衛作「三十六歌仙額」を見に埼玉県立歴史と民族の博物館へ

先日、「埼玉県立歴史と民俗の博物館」に、岩佐又兵衛勝以の「三十六歌仙額」(重要文化財)を見に行ってきました!9月から3期に分けて展示されていたのですが、色々スケジュールが合わず、やっと最終日の前日に行けました。

この作品は川越市仙波東照宮所蔵の作品ですが、保存の為と思われますが、現在は県の博物館に収蔵されています。思ったより博物館が遠かったので、川越の博物館に置いといてよ〜、自転車で行けるのに〜、とちょっと文句言いつつ、始めて「埼玉県立歴史と民俗の博物館」に行きました。埼玉なのに、結構ちゃんとした博物館で埼玉県で出土された品を展示してあり、日本の歴史の中の埼玉地方の関わりなどわかりやすく展示してありました。

埼玉県立歴史と民俗の博物館の展示リーフレットより
裏に署名があります

お目当ての「三十六歌仙額」は美術展示室にあり、1点づつはそんなに大きくないのですが、ガラスケースの手前に斜めに展示されていて、非常によく鑑賞出来ました。ガラスケースの奥の壁に展示されているだろうと予想して行ったので、嬉しかった!まじまじと手に取れるくらいの距離で見られるのは貴重です。ガラスにへばりついて見てきました。

この作品は、川越の喜多院の隣にある仙波東照宮が寛永15年(1638年)の火災で消失したため、三代将軍家光の命で拝殿が再建され、そこに奉納するために制作されました。寛永17年6月17日に拝殿が落成しているのでその年1640年の作ということになります。又兵衛、忙しかったのか、ギリギリまで仕上がらず、脅迫めいた催促の手紙が残っているようです、、、。なんか人間味があって良いですよね。

1640年の作品ですし、仙波東照宮も結構ボロい、いや、古いので作品も痛みが激しいかと思いきや、とても綺麗でした。380年経ってますし、しかも神社の拝殿にあったものなのに保存状態は良好でした。とても美しいですし、細かいデイテールもはっきり残っていて、見応えがありました。今回は36作品のうちの三分の一しか見れなかったので、次回展示される際にはまた行きたいと思います。

岩佐又兵衛は、6月18日に書いたブログ「洛中洛外図屏風(舟木本)」に詳しく載せていますが、波乱の人生だった為か、死後、浄瑠璃の作品になったりして、ほぼ伝説の「浮世又兵衛」という画家が出来上がってしまい、実在の人物だったのか、架空の人物なのか謎に包まれていましたが、明治19年(1886年)に仙波東照宮の宮司が拝殿に飾られていたこの作品に「寛永拾七年庚辰年六月十七日 絵師土佐光信末流岩佐又兵衛尉勝以図」と記入されているのを発見し、その存在の謎が解かれるきっかけになりました。

ということで、岩佐又兵衛を知るには重要な作品に出会うことが出来てよかったです。ますます又兵衛を知りたくなりました!

埼玉県立歴史と民俗の博物館公式HP

アクセス:東武アーバンパークライン(野田線)大宮公園駅下車 徒歩5分(住宅街を歩きます。近くて楽です)

歌川国貞(三代目豊国)の浮世絵を購入!

先日主人が浮世絵を購入してくれました。クリスマスだから!・・・渋すぎるけど嬉しい。

初めて絵画を購入して、しかもネットだったので、、、大丈夫??鑑定団の音楽が頭を流れてしまいましたが、、、裏にインクのシミがあるし、汚れ具合も古そうだし、サインなんかも図版と見比べたりして、多分大丈夫。本物。

歌川国貞 役者絵 大判錦絵 江戸時代後期

歌川国貞(三代豊国)の晩年の作品です。構図も良いし、背景には菖蒲も描かれ、縁起も良さそう。役者絵です。爽やかでキリッとした美男美女(女形)、構図も素敵です。

版画とは思えない細かいディテールを手元でマジマジと見てしまいました。髪の毛1本1本を描いているのではなく、彫って刷っている。髪の生え際は1mmに5本も髪の毛が描かれています。彫師の技ですね。微妙なグラデーションは摺師のテクニックによるものです。木版画でよくここまで作れるな、といつも感心してしまいます。彫師や摺師によってその作品の出来が左右されるので、作家のお気に入りの職人さんがいたそうです。この作品には彫師の名前が入っていますが、国貞の晩年の作品には彫師や摺師の名前が入っていることが多いようです

当たり前ですが、本物には惹きつけられてしまいます。音楽も録音で聴くのとライブに行くのとでは、全く違うのと同じですね。絵画も生で見ると迫力というか、図版やネットで見るのと別物ですね。

国貞は天明6年(1786年)江戸本所五ツ目(現在の江東区亀戸5〜6丁目辺り)の生まれ。子供の頃から浮世絵が好きで教わらずに浮世絵を描いていたそうです。15〜16歳頃に歌川豊国に弟子入り。その才能は豊国も認め、期待されていました。その期待通り、23歳(文化4年1807年)頃から読本の挿絵をはじめとして活躍します。錦絵も好評で、特に美人画は躍動的でイキイキと生活していた女性が粋に描かれています。

文政8年(1825年)豊国が没し、二代目は養子の豊重が継きますが、天保6年(1835年)頃に逝去したか、引退をしたようで、弘化元年(1844年)国貞が三代目を継ぎます。なのに、作品には「国貞改二代目豊国」と書かれているものも多く、混乱します。どうやら二代目の襲名には一悶着あったようです。実力は国貞なのに、養子ということで豊重が勝手に二代目を名乗ってしまい、さらに家庭の事情なんかもあったりして、揉めていたようです。現在の美術研究では混乱するので国貞=三代目にしているようです。当時の人は住居にちなんで「亀戸豊国」と呼んでいたそうです。こっちの方が分かりやすいかも!正直、名前変えるのやめてほしい、、、。過去の人に言ってもしょうがありませんが、分からなくなっちゃいます。北斎がその代表格ですけど、、、。

北廓月の夜桜 歌川国貞 横大判錦絵 (天保〜弘化頃)
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)国立文化財機構所蔵品統合検索システム
吉原の大門です。江戸の人々が生き生きと描かれ、賑わいがよく分かります。

襲名後、晩年は職人と連携して版画の高度な技法を誇示する工芸的な作品が多くなりますが、元治元年(1864年)に79歳で亡くなるまで精力的に作品を制作し、当時の浮世絵界を牽引する一人として活躍しました。

遊郭について〜その2

遊郭について〜その2

今回は遊郭、江戸の吉原を例に図解で説明します。

参考文献・双葉社スーパームック「吉原遊廓」

遊郭は一つの町になっていました。周囲は幅3mの堀(おはぐろどぶ)(1)が掘られていて、出入口は大門(2)一つでした。遊女が逃げないように要塞のようになっていたんですね。大門を入って左には町奉行配下の面番所(3)で怪しい客を監視し、右の監視所(4)では吉原の自衛団が遊女の足抜け(脱走)を監視していました。

大門を入って真っ直ぐ伸びた中央の大通りが仲の町(なかのちょう)(5)。春には桜、秋には紅葉を植えたりと、季節に合わせて花木を植え華やかに演出しました。仲の町の左右には引手茶屋(6)が並びます。

引手茶屋とは遊客を妓楼(遊女屋)に案内する店で、客の送迎をしたり、吉原芸者を招いて宴会もしました。高級花魁はここで紹介してもらわないと会えません。

仲の町から木戸(7)を通って横道に入ると妓楼が並びます。横道も通りごとに名前がついていました。(8)

妓楼にはランクがあり、上位から大見世、中見世、小見世とあり、大見世では一晩で何十両も払える上客でないと遊べません。さらに、吉原の両端、おはぐろどぶに沿って並ぶ遊郭(9)は最下級でした。

吉原の端にある九郎助稲荷(10)は遊女からの信仰が厚かったそうです。吉原から逃れられない辛い現実を象徴しているようです。

妓楼1階

いよいよ妓楼の中へ。妓楼の入口には張見世(11)があり、この中で遊女が座って客を待っていました。この張見世は格子があり、この格子を籬(まがき)といい、大見世は大籬で天井まで全てを覆う格子、中見世は半籬で上部の1/4が無い格子、小見世は上半分が無い格子で、店のランクがひと目で分かりました。ここで花魁を選び妓楼に入ります。

入ってすぐ、入口を監視するような感じで楼主(店のオーナー)がいる内所(なっしょ)があります(12)。妓楼は全て2階建てで、1階は従業員の生活の場、営業は2階でしていました。内所は2階までの吹き抜けになっていて、1階から2階全ての様子を見れる構造になっています。

内所で周囲を見張る楼主
後ろには神棚、その横の鈴で人を呼びます
大見世の花魁
大籬から客が覗いているが、ほとんどは見物客
妓楼2階

2階へ上がるとすぐに監視するように遣手婆(やりてばば)の部屋(19)があり、周囲に花魁部屋(20)が並んでいました。中央の出格子(21)には花魁用の下駄やお歯黒の道具、水差しなどが置かれていました。その横(22)には掲示物などを貼るスペースもありました。中庭(23)もあり、豪華な作りになっていました。

階段を上がると出格子
周囲には花魁部屋が並びます

炭治郎たちが活躍する、遊郭の全体がなんとなく分かって頂けたでしょうか。どこに鬼が潜み、退治していくのか今後の展開が楽しみです。

鬼滅「遊郭編」始まる

鬼滅「遊郭編」始まる

とうとう、遊郭編始まりましたね!煉獄邸の話はちょっと、うるっときてしまいました、、、。火の神神楽の秘密や煉獄さんと炭治郎の父の秘密とかも知りたいですね〜。

最後に遊郭の映像が流れていましたが、鬼滅の刃の1話目からモデリング協力をしております。モデリング協力とは背景画の骨格となる形状データおよびレンダリングの際の素材を制作提供しています。いわゆる日本家屋のデータ協力ですので、お屋敷などが出てくると注目して見てしまいます。今回の遊郭編には多く登場するので楽しみです!

また、すごく綺麗にアニメ映像になっていて感激しました!スタッフの皆様、感謝です。これからどんな展開になるのか、楽しみになりました。炭治郎達が遊郭の中を走り回ったり、バトルしたりして破壊されちゃったりもするんだろうな〜。

前半はウルっと来て、後半はワクワク!来週が待ち遠しい!

ところで遊郭といえば、浮世絵にずいぶん描かれてきた題材ですが、その中でも異彩を放つ絵画が葛飾北斎の娘、栄、雅号「応為」の代表作、「吉原格子先之図」です。

葛飾応為『吉原格子先図』紙本著色一幅。26.3×39.8㎝ 文政~安政(1818~1860)頃。太田美術館蔵。出典wikipedia

美人画は俺以上だ、と北斎に言わしめた応為。一番近くで幼少の頃から北斎の絵を見続け、その才能を受け継ぎ、北斎の右腕として絵を描き続けました。北斎の工房で描いていたため、応為としての作品はほとんど残されていません。しかし「吉原格子先之図」の図中の提灯には隠し落款の「応為」「栄」の文字が見えます。この作品は「私の作品よ」と主張するようです。

まるで西洋画のような陰影と遠近法は、江戸時代の人の絵なの?と、驚きがあります。当時こういった表現方法をされていたということは、かなり勉強研究していた証だと思います。北斎は西洋画を集めていた、という説もあるので、一緒に研究していたのかもしれません。また、この作品を女性が江戸時代に描いていたという事が新鮮ですが、北斎とは違う色使いと繊細なタッチで、女性らしい濃厚さというか、艶かしい感じがします。

その「吉原格子先之図」からインスパイアして製作したのが吉原のCGです。妖しい光と影が吉原の色香を表しています。

吉原張店

吉原張店内部

とらやの羊羹

老舗の和菓子といえば、『虎屋』の羊羹を先日頂いたので数年ぶりに食べました。さすが、美味しいですね。甘すぎず、でもしっかりとした餡子の味がして、飽きが来ない味でした。最近羊羹は非常食としても注目されていますが、賞味期限が1年間もあってビックリです。まあ、虎屋の羊羹を非常食にする人はいないと思いますけど、、、。

虎屋の創業、室町時代後期、ってかっこいい!色々な文献に虎屋のことは書かれているようですが、浮世絵として残っていないのかな〜と思いましたが、なかなか見つけるのは大変なようですね、、、。

せめてお菓子を食べている浮世絵はないものかと探してみました!

「江戸流行菓子話船橋」天保11年 渓斎英泉(江戸商売図会(中公文庫)より)

こちらの浮世絵は深川の船橋屋織江です。江戸に京菓子の羊羹が入ってきたのは寛政年間(1789〜1801年)頃で、京菓子の羊羹を江戸っ子好みの味にして大ヒットしたそうです。絵からもその繁盛ぶりが伺えます。

北斎の作品も見つけました! 

「母子と梅の花餅」2019年新・北斎展のカタログより

母子と梅の花餅 宗理画 寛政9年(1797年)津和野藩伝来摺物 大小暦狂歌摺物

摺物は私的に出版されたもので一般の人が購入するものではなく、何らかの目的のために配布するために作られたものです。津和野藩の藩主、亀井家に残されていたものなので、藩主からの依頼で作られたのでしょう。右下の四角い重箱に入っているのは花餅です。お正月などのお祝いに食べられる、餅でできたお菓子です。そこに数字が書いてありますが、それと、周りの赤い花が暦を表しています。狂歌も上に書かれていますね。

梅の花の形をしたお菓子に数字が書いてあります

お母さんが子供をあやし、楽しそうな赤ん坊。子供の成長を願う優しい絵です。北斎30代後半の宗理時代は琳派に傾倒し浮世絵から離れていた時期で画風が繊細でこの絵のテーマにぴったりとマッチしています。

江戸時代は「江コ時代」だった

10年前に江戸時代のリサイクルをPRしたくて作った画像です。

江戸時代は捨てるゴミは無く、全てリサイクルする循環型社会でした。現代人が必死に目指そうとしていることが、100年以上前に実現されていたんですね。

新聞広告風に作ってみました!

現在ドバイ万博で上映されている映像も江戸の循環をテーマにしています。

EDO Renaissance. Let’s return to Japan at that time

200 years ago, the people of Edo knew how to live in harmony with nature.

It means living in the same rhythm as the earth and making the same circulation as the earth.

I spent the day in line with the movement of the sun, and the things around me were made with gifts from nature such as trees, grass, and soil.

A system that cherishes everything and can recycle not only unneeded items but also ash and human excrement was created by the common people and has taken root firmly.

In order for the earth to be healthy, it is essential to have a healthy circulation in which the water that falls on the mountains as rain flows through the river and reaches the sea, becoming clouds and raining on the mountains again.

What is necessary for earthlings is to regain a circulating life.