遊郭について〜その5〜 吉原のしきたり

「夕もやが柳をほのかにぼかし、黄昏燈(たそやあんどう)に火をつける頃になると、各楼の美しいともしびは星のように輝き、絃声(すががき=三味線の音)が聞こえてくる。」と寺門静軒の『江戸繁盛記』にあります。イルミネーションが無かった江戸の夜に、行燈の火で明るく輝き、三味線の音が流れ、妖しい雰囲気を醸し出す吉原が目の前に広がるようです。

張見世・妖しい光に引き寄せられます

そんな吉原には色々なしきたりがありました。吉原は疑似恋愛をする場所なので、廓のしきたりに則って手順通りに進めねばなりません。当然費用も嵩んで行きますし、そんなに簡単に遊べる場所では無かったのです。

まずは遊郭に行って一般の客は直接妓楼の張見世でお気に入りの花魁を見つけますが、お金持ちの上客は引き手茶屋を通します。この引き手茶屋は予算や好みを聞いて、お客にあった花魁を紹介してくれる茶屋ですが、話を聞いてすぐ紹介、という訳には行きません。茶屋ですのでここで酒宴をあげ、花魁が迎えにきてくれます。

茶屋を通しても通してなくても、花魁を一目で気に入ったからと言ってすぐに床を共にはできません。なんと、3回通わないといけないのです。まず1回めは「初会(しょかい)」です。「引付座敷」というところに通され、酒宴で花魁に出会います。上座は花魁。初めて会ったのですから、床入りしても触れることも叶わない。でもこの酒宴代ももちろん客持ちです。

2回目は「うら」と言われ、1回目と同じように酒宴となりますが、少し親しさを見せてくれます。3回目でようやく馴染みの客となり、床入りできますが、今度は「床花(とこばな)」と言われるチップをはずまなかればなりません。

馴染み客

さらにその後も他の花魁と遊ぶことは厳禁。吉原では花魁が最上位ですから、花魁の機嫌を損ねてはいけません。また年中行事が多く、正月松の内をはじめとして花見や月見など毎月、吉原独特の祝い日などの「紋日(もんび)」を設けていました。いわゆるイベントデーでこの日は揚代が倍になりました。この日にお客がいないのは花魁の恥になるので、馴染みの客は足を運びます。というとまた費用が、、、。その他もろもろ、上位の花魁だと一回の揚代(1日の全ての料金)で職人の日当数ヶ月分になるそうなので、だいたい、百万円ってところでしょうか。これでは身代を潰す者が出てきても不思議ではありません。それでもハマってしまう人がいるのですから魅力的だったのでしょう。もちろん花魁も上客が離れないように努力は惜しみません。芸を磨いたり知性やテクニックを磨いたり。さらにお客の名前を刺青したり、小指を落として送ったり、、、。やはり色々別世界。

北廓月の夜桜 歌川国貞(三代豊国)筆 19世紀 横大判錦絵
北廓(ほっかく)とは、吉原のこと。旧暦3月の紋日の様子です。
中の町にはこの時期に合わせて桜が植えられました。大変な賑わいです。
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)国立文化財機構所蔵品統合検索システム

福島の地酒

先日福島の地酒飲み比べセットを購入しました!福島20%OFFセールに惹かれて6本セットをお得に購入してみました!福島県は親戚がいることもあり、子供の頃は何度も訪れ、お米もとても美味しいので楽しみにしておりました。

福島県にもたくさん日本酒の蔵元があるんですね。飲み比べセットは初めてですが、全て老舗の商品で、さらに6本中4本は江戸時代の蔵元で、老舗探索をしている私としてはいろいろお得でした!

開当男山酒造(南会津町)「開当男山」享保元年1716年創業。剣菱に近い、これぞ日本酒。王道で美味しい。ちなみに「男山」というお酒は全国にたくさんあるそうで、江戸時代に飲まれていた「男山」はどれかははっきりとわからないようです。このお酒かもしれないし、もう無くなってしまっているのかもしれません。「酒=男山」のイメージがあり、競って同じ名前で作ったからのようです。昔は今のように特許とかないですからね、、、。でも以前から開当男山が飲んでみたかったので、このセット買ってみました。アタリでした!

笹の川酒造(郡山市)「笹の川」明和二年1765年創業。新しい挑戦を続けている企業でウイスキーも製造しているそうです。老舗なのに新しいものに挑戦する姿勢、尊敬します。

大和川酒造店(喜多方市)「弥右衛門」寛政2年1790年創業。大和川ファームという自社農場で自社栽培米での米作りをしているそうです。辛口でスッキリ飲めます。

末廣酒造(会津若松市)「末廣」嘉永3年創業1850年創業。明治に建てられた酒蔵が重要文化財に指定されています。見学に行きたい!会津に行きたい!甘口でしっかりした味わいです。

檜物屋酒造店(二本松市)「千功成」創業は明治7年1874年。さっぱりとしていて、アキが来ない飲み口がいいですね。

名倉山酒造(会津若松市)「名倉山」大正7年1918年創業。飲み口が良くてグイグイいけます。飲み過ぎ注意です。

どのお酒もとても美味しかったです!またそれぞれ個別に購入したいと思います。

江戸時代の本を読んでみよう!

最近、江戸の本を読んでおります。当時の本はもちろん持っていないし、もし持っていても、昔の仮名遣いは読めないので、再出版された本ですが、言葉はそのままなので、半分理解できていないところもあって読むのに時間もかかりますが、結構、わかります。学生の時に習った古文よりも江戸の言葉の方が現代語に近いですね。さらに現代語訳が併記されている本だとかなり楽です。ちなみに漢文で書かれている作品は完全にお手上げです。学生時代にしっかりと漢文の勉強をしておけば良かった、、、。でも漢文で書かれた本は完璧に現代語訳されているものがほとんどだと思います。

内容的には、ライトノベル的な感覚で読めます。ただ、江戸の人との感性の違いや知識、流行も違うので意味が分からない事も多々ありますが、200年以上前の人も同じ様なことを言って、同じ様なことで笑って怒っていたんだな、と思うと、江戸を身近に感じます。

まだ数冊しかトライしていませんが、初心者に楽しく読めたのは妖怪の話です。絵も面白いし、妖怪とかお化けとかは時代を超えて人気ですね。

中村が初めて作ったCGは式亭三馬(安永5年1776年〜文政5年1822年)の『浮世風呂』(文化6年1809年に前編が出版)からインスパイアされた作品だったので、『浮世風呂』を読みました。

溢れそうな本棚。図書館みたいな本棚に憧れますが、、、。
中央の右の黒い本が式亭三馬の浮世風呂と浮世床。
昭和5年出版の本です。最近の出版じゃあ無いですね、、。
でも句読点や改行があるので読み易い。

こちらのハードカバーは昭和初期に出版されたのですが、句読点もあり、改行してくれているので読みやすいです。現代語訳はないのですが、本文の上に注釈があるので大体理解できます。それでも、所々意味不明ですが、英語の本を読む時も、分からないところは飛ばしていいから、量を読め、って聞いたことがあるので、あまり気にせず読むことに。

賑やかな湯屋の様子を描いた挿絵です。男湯のはずなのに中央に女の人がいますね。
混浴禁止だったはずですが、江戸以外はほとんど混浴だった様で、
子供をあやすお母さんが脱衣所にいても周囲の人は誰も意に介さず。
話の中でもお父さんやご主人を呼びに男湯に女の人が平気で入ってきます。
ちょっとびっくり。今では考えられない。初めは私の理解力不足かと思いました、、、。

『浮世風呂』は江戸の湯屋(お風呂屋さん)でのごく日常の出来事を会話形式で短編の話にしていて、江戸の人たちの生活が垣間見れる作品です。どこの家に子供が産まれた、とか、子供連れのお父さんが熱い湯を嫌がる子供をあやしながら一緒に湯に浸かっている様子、とか、女湯では、化粧の濃いのは良くない、薄化粧の方がいいよね、なんて会話していて、今と変わらないよな〜ってしみじみ思います。お風呂で起こる出来事はちょっとした喧嘩や湯当たりで倒れちゃう、といったほのぼのとしたエピソードばかりです。江戸時代は現代と違う不条理もあったと思いますが、のんびりした時間を過ごしていて憧れます。

二階建ての湯屋の構造が分かるCG。左側が男湯、右が女湯。
男湯からのみ2階へ上がれました。2階は庶民の社交の場。

温泉でなく、スーパー銭湯でもなく、普通の銭湯に行ったのはいつでしょう、、、。もう少しコロナが収まったら浅草あたりの昔ながらの銭湯に行きたいものです。

江戸の浮世絵師・鍬形蕙斎の描いた越後屋とcgで製作した越後屋を比較してみた

先日の飛鳥山のブログを書いたときに鍬形蕙斎(くわがたけいさい)の飛鳥山の絵を紹介しましたが、あのときに、鍬形蕙斎の作風ってこんなだったっけ?と改めて調べてみました。鍬形蕙斎は意外と資料が残っていなくて謎の絵師のようです。残念ながら鍬形蕙斎研究の著作物も少ないです。

鍬形蕙斎(明和元年1764年〜文政7年1824年)はもともと浮世絵師で北尾政美(きたおまさよし)と名乗っていました。紹真(つぐざね)という名前もあります。江戸の畳屋に生まれ北尾重政に弟子入りしました。同じ重政の弟子には北尾政演(きたおまさのぶ)=山東京伝がいます。狩野派や大和絵、西洋の解剖学も学び、あらゆる画法を駆使して描き、「江戸の工夫者」と称されました。寛政8年に津山藩八代藩主松平越後守津山候康哉(やすちか)の家臣となり、さらに狩野派の門人となり、鍬形蕙斎と名乗りました。この後は浮世絵ではなく、肉筆画の制作に専念しました。

鍬形蕙斎=北尾政美の代表作は鳥獣略画式と人物略画式、そして「近世職人尽絵詞」です。略画はその通り、シンプルで簡単に描かれたものですが、とても可愛らしく、最近流行った、『かわいい浮世絵』の代表です。

鍬形蕙斎 略画式 寛政7年(1795年)
出典:Smithsonian free gallery of art 
 略画式シリーズの最初の本で人物、草花樹木などが描かれている。
脱力系のかわいいキャラがたくさん。
最近、雑貨のイラストにも使われていますね。

「近世職人尽絵詞」は江戸の職人と庶民の生活が描かれているのですが、柔らかい筆遣いで、軽やかに当時の人々を描いています。職人の絵だけなのかと思っていたのですが、越後屋や寺子屋、様々な商店の中の様子が分かる絵も多く当時の風俗もよく分かり、歴史資料的な価値もあります。

近世職人尽絵詞 鍬形蕙斎筆 江戸時代・19世紀紙本 3巻 淡彩
大工の仕事の様子。真ん中の人が、背中の日焼けまで描かれています。
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
国立文化財機構所蔵品統合検索システム
近世職人尽絵詞 鍬形蕙斎筆江戸時代・19世紀紙本 3巻 淡彩
右の文字に駿河町越後屋と読めます。越後屋の内部です。繁盛している様子がわかりますね。
活気があって楽しそうな雰囲気が伝わります。会話や笑い声が聞こえてきそう。
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
国立文化財機構所蔵品統合検索システム
越後屋内部のCG再現
CGになると日本家屋の重厚感があります。
広さとか建物の作りはCGだと分かりやすい。

葛飾北斎(1760年〜1849年)と鍬形蕙斎は同時代の人で「北斎嫌いの蕙斎好き」という言葉もあるぐらい評価も高く、比較されました。それは鍬形蕙斎が評判になると、北斎が同じ画題で絵を描き、それ以上に売りまくる、といった事が実際にあったようで、北斎は俗っぽい、鍬形蕙斎の方が、品が良くて好き、という蕙斎ファンがいたようです。実際に2人の絵を比べてみると、鍬形蕙斎は柔らかく暖かく、確かに品が良いとも言えます。北斎は力強くてパワーがあり、自己主張が強いように思います。確かに俗っぽい。でも私はそんな北斎の俗っぽくて、自分は絵を描くしかないんだよ、っていう芸術家の叫びが好きです。

江戸時代から愛される飛鳥山の桜

東京北区王子にある飛鳥山は三代将軍吉宗が桜を植えたのをきっかけに桜の名所になりました。ここに植えられたソメイヨシノは、飛鳥山からも程近い、染井で誕生しました。桜の季節には大勢の人々で賑わい、お酒に弁当に団子に、歌ったり踊ったり、仲間で、家族で楽しい時を過ごしました。

歌川広重筆 東都名所・飛鳥山花見 19世紀 横大判 錦絵
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)国立文化財機構所蔵品統合検索システム

そんな様子がわかる歌川広重の浮世絵です。踊っている人が見えますね。宴もたけなわになると上半身脱ぐのが江戸の人なのでしょうか??楽しそうですね。宴会の様子を覗き見てみたいです。

鍬形蕙斎筆 飛鳥山図 江戸時代・19世紀 絹本着色
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)国立文化財機構所蔵品統合検索システム

また、鍬形蕙斎(北尾政美)の「飛鳥山図」を見ると全く違う飛鳥山です。遠景から眺めると自然豊かで静謐な、まさに「山」だったんですね。今は道路と線路に囲まれて、山の雰囲気はありませんが、急な坂になっているのは山だった地形そのままなのでしょうか。広重の絵にも描かれていますが、松もたくさん植えられていたんですね。おめでたい感じ?

実は私、この近くで子供時代過ごしていまして、この辺りは地元、愛着があります。子供の頃にお弁当を持って花見に行って、両親は花見酒を楽しんでいるので、姉とSLのある広場に行って大きい滑り台で遊んだりしたのを思い出します。

こちらの写真は2019年、数年ぶりにJR駒込駅から、母校に寄って、古河庭園、平塚神社を通って王子の飛鳥山まで散策した時の写真です。JR上中里駅の近くにある平塚亭でおにぎりとかお団子とか買って、飛鳥山でお花見しました。

平塚亭は、ドラマのロケ地になって最近有名ですが、私にとってはフツーに子供の頃からあるお団子屋さんで、ここ近年の人気ぶりにビックリです。混んでいて、並んで購入しました!確かに平塚神社の鳥居の横の小さいお店でレトロな雰囲気がいいかも。美味しいし。ちなみに平塚神社も私の遊び場でした。小学校の写生大会も平塚神社の本殿描いて賞をもらったな〜、なんて色々思い出します。

花見に話を戻しますが、コロナ前はとても大勢の人で賑わい、座る場所を確保するのも大変でした!いつの時代も楽しみ方は同じなんですね。公園も綺麗に整備されて、「渋沢史料館」(渋沢栄一の資料館)も公園内にできていてびっくりしました。昔は飛鳥山公園の隣に渋沢邸があったと記憶していますが、現在は公園の一部になっているんですね。私は、渋沢邸が王子にあるので、ずっと、渋沢栄一は王子の人だと思っていました、、、。

祖母が生前、話していましたが、昔(多分、戦前)は、今の飛鳥山公園だけではなく、本郷通りまで桜が植っていて美しく、花見の人が大勢行列をなしていてもっと賑やかだったそうです。子供の頃に聞いた話なので、あやふやではありますが、ずっと桜の並木道だったら、さぞかし美しかったんだろうな〜と、想像するとワクワクします。

北斎の描いた江戸の日常

最近、戦争のニュースが連日報道されています。

平和な世の中でなければ人々の生活は豊かにならないし、文化も発達しません。でも人間の歴史は戦争とともにあります。こんなにも人間という生き物は戦うことが好きなのか、と絶望的になってしまう時もあります。

日本の歴史の中で、世界的に稀な事のようですが、戦争が起こらない平和な時代が2回あります。平安時代は約400年間続きました。江戸時代は265年間。長い戦国時代を経て泰平の世を、と願い、徳川幕府ができました。その泰平の時代に日本の独自の文化は華開きました。豊かになりたい、幸せになりたい、自分を認めて欲しい。そのための手段は戦争では無い。そのことに早く気がついて欲しいと切に願います。

新板大道図彙・石町 葛飾北斎筆 文政8年(1825)頃 横四つ切判 錦絵 
平和で豊かな江戸の町の日常の一コマ。大好きな絵です。
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)国立文化財機構所蔵品統合検索システム

日本橋通りの真ん中で開かれた「雛人形市」

今日はひな祭りですね。我が家でも小さなお雛様を飾っていますが、お雛様の歴史は古く、平安時代に無病息災を祈り人形(ヒトガタ)を川や海に流した行事が起源です。その後、上流階級の少女の「ひいな遊び」という人形を使ったおままごとが流行たのが合体した形で、今のひな祭りになりました。3月3日と日にちが決まったのは室町時代だそうです。この頃はまだ公家や武家などのお祭りでしたが、平和な江戸時代に、財力のある町人から庶民にも広がりました。

十軒店の雛市。昔は自動車はいないので道の真ん中に屋台がずらっと並んでいました。

江戸の十軒店(じっけんだな)、今の日本橋室町辺りには2月から3月に雛市がありました。ちなみに雛人形市が終わった4〜5月には武者人形市、12月には羽子板市がありました。これは人形町、浅草などでもありましたが、ここ十軒店が一番賑やかでした。屋台がずらっと並んで、お雛様、お内裏様などの人形はもちろん、屏風やぼんぼり、花瓶に白酒など全て売られていました。親に連れて行ってもらった女の子はあれもこれも欲しくなってしまいそうです。今の羽子板市の様に、値段はあってない様な物、お店の人と交渉して買い手がつくと、手締めをする、ずいぶん賑やかな市でした。そのせいか、倹約令の対象になることもあり、八寸(約24cm)以上の人形や華美な装飾は禁止される事がありましたが、そこは江戸の人のこと、禁制を守りつつも上手く祭りを楽しんでいました。

現在は「ひな祭り」と言っても自宅でそっとお祝いするだけですが、江戸時代はまさに「お祭り」と言った感じです。なんだか、ドイツのクリスマスマーケットを思い起こさせます。雛市も今でも残っていたなら、日本の素敵な文化なのに、と残念に思います。

ビアズリーと北斎

ここ1ヶ月確定申告の書類作りとかして忙しかったのですが、それだけではなく、勉強しておりまして、と言っても本を読んでいるだけですが、、、。ブログを書く際に、色々調べながら書いていると、これはどうよ?これってどうなの?と次々と疑問とか発見とかあるせいで、それを調べるため、図書館で本を借りたり、買ったまま読んでいなかった本を読んだりしていたら、あっという間に1ヶ月が経ってしまいました、、、。読みかけの本や、資料としてチェックしている本など、macがのっている小さい机に溢れています(本当は周りのクッションや床にまで、、、)。片付けても次の本を出してくるのでエンドレス、、、。これは諦めた方がいいな。

今回、何を調べていたかと言いますと、北斎とビアズリーの関係です。北斎の図版を見ていたときに、ビアズリーのサロメの絵を思い出しまして、絶対に北斎の影響がある!と調べてみました。浮世絵が印象派に多大な影響を与えたのは有名ですが、やはり、イギリスの芸術家にも影響を与えていました。正直、イギリス美術は日本ではフランス美術ほど人気ではないので、あまり知られていないんですよね。

オーブリー・ビアズリー(1872〜1898年)はイギリスのイラストレーター、挿絵画家として有名です。日本で一番有名なのはオスカー・ワイルドの「サロメ」の挿絵。26歳の若さで亡くなるまで、黒のペン画でグロテスクでエロチックな独自の世界観を表現しました。

Aubrey Vincent Beardsley 
サロメより「お前の口に口づけしたよ」

浮世絵は芸術家仲間から教えてもらったようで、春画を壁にはり、母と姉から嫌がられていたそうです、、、。ビアズリーのエロチシズムは春画に刺激されたのでしょうか。

特に影響を受けたのは「北斎漫画」だろうと言われていますが、私が見つけた北斎の絵は「勢田橋竜女本地」(文化8年1811年)です。サロメは戯曲ですが、この「勢田橋竜女本地」は浄瑠璃本でその挿絵という共通点と、首を差し出す、という似たシーン。また、サロメの絵は挿絵として描いた訳ではなく、イギリス版が出る前のフランス語版の「サロメ」にインスパイアされて描いた絵なので、北斎の絵を思い出して、自由に、似たようなシーンを描きたくなった、なんて事が合ったのではないかと思います。あくまでも私の推測ですが、、、。後に正式にイギリス版の挿絵を依頼されますが、作者のワイルドは「日本的すぎる」と、あまり気に入らなかったそうです。

葛飾北斎「勢田橋竜女本地」文化8年(1811年)
新・北斎展カタログより
話の内容は調べたのですが分からなかったです。残念。
うっすらと亡霊のように女性の首や煙のようなもの、狐と思われる動物が描かれているのがおどろおどろしい。

北斎漫画〜その1〜

先日、古本ですが「北斎漫画」を全編購入しました!江戸時代に刷られたものが欲しいですが、そんな財力は無いので、昭和に発売された、浮世絵研究で有名な永田生慈先生が監修の本を購入しました。

言わずと知れた「北斎漫画」。文化11年(1814年)から明治11年(1873年)まで全編15編出版されました。ちなみに北斎は嘉永2年(1849年)4月18日に90歳で亡くなっています。生前に出版されたのは十二篇まで、それ以降は没後、と言うことになります。

十五篇合計で4000近い図があり、動植物、岩、水、風、空想上の動物人間、波、お墓、村、歴史上の人物や高僧、庶民の生活、武士、魚、犬猫、虫、トカゲ、神仏、風景、コマ絵の相撲や踊り、剣術や槍の稽古風景、幽霊、バケモノ、文様、野菜、おもちゃや生活道具、騎馬武者、龍、樹木、草などなど、、、。購入した本も分厚いハードカバーで3巻分です。

ART INSTITVTE CHICAGO – Hokusai manga
The New York Public library digitalcollections

北斎の絵を見るといつもそのデッサン力に、つい「うまいよな〜」と呟いてしまいます。そして必ず北斎の個性が光っている。凄い人です。

「ホクサイスケッチ」として欧米でも有名になり、浮世絵ブームの火付け役になりました。印象派のマネやポスト印象派のゴーギャンもスケッチを真似しています。エミール・ガレのガラス器のデザインにもなりました。

「北斎漫画」初編は名古屋で描かれました。名古屋永楽屋と江戸の角丸屋の出版になっています。その時の広告のコピーには、名古屋永楽屋「先生の物に感じ興に乗じ折にふれ心に任せてさまざまの妙図を写たる編〜」江戸角丸屋「興に乗じて心にまかせてさまざまの図(かたち)を写す編〜」とあります。まさに北斎の心に写った万物を描いているようです。しかし、当初は増え続ける各地にいる北斎の弟子やファンの絵手本としての目的が大きかったようです。ですが、大衆に大人気となり、続編が次々出版されて一大ブームになってしまいました。いまだに「北斎漫画」が出版されていますから、200年に渡る大ベストセラーです。

The New York Public library digitalcollections
The New York Public library digitalcollections

「マンガ」という言葉の語源といわれていますが、タイトルを考えたのは北斎だそうで、たくさんの物を気の向くままに写した、というような意味合いだったようです。でも内容が滑稽なものやパロディな絵が多かったので、言葉が現在の「マンガ」の意味に変化していったのでしょう。そういう意味では確かに現在の代表的日本文化のマンガに多大な影響を与えていると言えると思います。

私なんかが北斎漫画を語っていいのか?と思いつつ、楽しいし、発見もたくさんあるので、また次回。

江戸の着物

鬼滅の刃の遊郭でのバトルも佳境ですね。今週は良いところで終わってしまった!堕姫の攻撃が帯、って凄いな、武器になるんだ〜。確かに重いし動きが制約されちゃうからある意味武器、、、。でも当時の人は着物が普段着だったわけで、もっと緩い感じで来てたそうです。そんな江戸の人の着物はどんなだったのか見てみたいと思います。

「美人と水売り」 歌川豊国筆 18世紀 大判錦絵
街で評判の娘さんがモデルでしょうか。モデル並みのスタイルですね。
水売りは、夏に冷たい水に白玉と砂糖を入れて売っていました。
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
国立文化財機構所蔵品統合検索システム

着物の原型はすでに縄文時代からあったようですが、平安時代には百人一首の姫の絵のような十二単があり、かなり今の着物に近づいています。室町時代には現在の着物の形の小袖(袖幅がやや狭く、袖丈が短い)ができました。昔は位や身分によって衣服が決められていました。一目見てその人がどんな人なのか分かるようにしていたんです。

江戸時代も男性の着物は身分で決められていました。武士は小袖に裃(かみしも)か羽織、袴。商家の主人は紋付、小袖、絽(ろ=夏の薄い透ける着物)、郡内紬(ぐんないつむぎ=山梨県の郡内地方の織物)、縮緬(ちりめん=強くよった糸で表面をデモボコに織った織物)が許されていましたが、贅沢をすると罰せられました。丁稚は麻か木綿のお仕着(主人から支給される着物)。手代や番頭になると前掛けを許されました。前掛けできるようになると出世したってことです。大工や左官などの職人はふんどしに半纏でしたが、のち紺の木綿半纏に股引、腹掛けになりました。この半纏の藍染を見た外国人が「ジャパンブルー」と称賛し、現在でも日本のイメージになっています。海に囲まれた島国だけれども南国のように明るい青ではなく、深い藍。良い色ですね〜。このように服装が差別化されていたので、時代劇を見ても一目でどんな身分かわかります。鬼滅のお館様も羽織袴で明らかに武士ですね。

では女性はどうだったのでしょう。女性の場合は身分よりも立場によって服装が違いました。結婚しているかどうか、年齢がどうか、ってことです。女性は小袖を着ています。娘時代は振袖を、結婚したら留袖(短い袖)を着ました。19歳で元服なので、それを過ぎたら結婚していなくても留袖を着たようですが、いつの時代も女性は若く見られたいもので、二十歳を過ぎても振袖の人もいたそうです。現代の成人式に振袖、というのは本当は違うんですね。十代までの着物だったんです。

「山東京伝の見世」 歌川豊国筆 横大判錦絵
この店は戯作者、現在の京橋にあった山東京伝の店で紙製のキセル入れやタバコ入れを売っていて当時評判でした。
中央に立っている女性は振袖なので娘さん、座っているのは留袖なのでお母さんでしょうか。
相手をしているのは前掛をしているので番頭か手代。
立っている男性は袴は履いていませんが、刀を持っているので武士の着流し(袴を履かない、カジュアルなスタイル)。
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)国立文化財機構所蔵品統合検索システム

堕姫が武器にする着物の帯ですが、江戸の初期は細帯でした。着物にお端折り(帯の位置で折り返して長さを調整する部分)もなくて、この方が断然楽ちんだったと思います。泰平な世の中になったからでしょうか、お端折りもでき、帯も太くなって色々な結き方が生まれました。おしゃれを楽しんだんですね。

さて、堕姫は遊女です。遊女の着物の帯、遊女だけが帯を前で結んだんですね。脱ぎ着しやすく、仕事上この方が都合が良かったってことです。当時の花魁はファッションリーダーでしたが、いくら花魁が評判で美しくても、堅気の女は必ず後ろ帯です。美人画などの浮世絵を見る時も帯を見れば遊女かどうか判別ができます。

「雛形若菜初模様・玉や内しら玉」礒田湖龍斎筆 18世紀 大判錦絵
当時の有名な花魁。帯は前です。
当時の美人画は若女性のためのファッション誌的な役割もありました。
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
国立文化財機構所蔵品統合検索システム