NFT始めました!その4〜OpenSeaへ出品〜

とうとう出品です。と、その前にガス代かかるのでイーサリアムを購入しないといけません。ガス代はブロックチェーンを使うときの手数料みたいなものらしいです。OpenSeaでは、初出品のときのみ必要だそうです。今、イーサリアムが安いので、安く済みそう。「ユニマ」では5000円弱だったので同じくらいでしょう。

こちらはビットフライヤーに日本円を入金してイーサリアムを購入するだけ。いくらかわからないのでちょっと多めにしておいた方が安心ですね。その後、メタマスクに送金して、これで準備万端。いよいよ出品手続きです。

上のバーに自分のアイコンが現れました!マイアカウントページに入れています!

アカウントページに入ると、アイコンの横のCreateをクリックしてNFTにする作品をアップして、作品名、HPアドレスと作品の説明を入力します。

画像をアップロードして、作品名、HPアドレス、作品の説明を入力します。

当然全て英語で入力するので、説明文とかは事前に翻訳してもらった文を入力しました。そのままコピペすると長くなるので、少し短くして何度か直して入力しました。こういう文も興味を持ってもらえる様にアピールするのはなかなか難しいですね。

細かい設定は取り敢えず無いので、最後にBlockchainをEtherumを選択し(Polygon等も選べます)Createを押すと、メタマスクが立ち上がるので署名してNFT作品ができました!

今回4作品出品するので、この作業を4回繰り返し。全てCreateしてから販売です。

マイページに作品が並ぶので、それをクリックすると、作品の詳細ページに行きます。右上にSELLの文字があるので、そこをクリックして、販売設定を始めます。まずは固定価格かオークションか選びます。本当はオークションが良かったのですが、最低落札価格が1EHT(現在1EHT=166595円です)に行かないと、オークションが終了せず、途中でやめるとガス代が発生する様なので、悩んだ結果、まずは固定価格から始めることにしました。あとは金額と期間を決めて出品するだけです!

右上の青いボタンを押します!
Fixed Priceが固定価格です

そしてやっと出品できました!!

と、「ユニマ」と「OpenSea」に出品しましたが、やはりそれなりに大変です。特に「OpenSea」の方がハードルは高いですが、初めに手続きをしてしまえば、次回からは作品をアップするだけなので1回だけ頑張ってしまいましょう!

今回は「江戸城/寛永度三代家光天守」「江戸日本橋通り」「吉原遊廓」「吉原引付座敷」のヴァリエーション、それぞれに4点づつです。初回のため#1や#aの作品ですので是非ご覧下さい。

遊郭について〜その2

遊郭について〜その2

今回は遊郭、江戸の吉原を例に図解で説明します。

参考文献・双葉社スーパームック「吉原遊廓」

遊郭は一つの町になっていました。周囲は幅3mの堀(おはぐろどぶ)(1)が掘られていて、出入口は大門(2)一つでした。遊女が逃げないように要塞のようになっていたんですね。大門を入って左には町奉行配下の面番所(3)で怪しい客を監視し、右の監視所(4)では吉原の自衛団が遊女の足抜け(脱走)を監視していました。

大門を入って真っ直ぐ伸びた中央の大通りが仲の町(なかのちょう)(5)。春には桜、秋には紅葉を植えたりと、季節に合わせて花木を植え華やかに演出しました。仲の町の左右には引手茶屋(6)が並びます。

引手茶屋とは遊客を妓楼(遊女屋)に案内する店で、客の送迎をしたり、吉原芸者を招いて宴会もしました。高級花魁はここで紹介してもらわないと会えません。

仲の町から木戸(7)を通って横道に入ると妓楼が並びます。横道も通りごとに名前がついていました。(8)

妓楼にはランクがあり、上位から大見世、中見世、小見世とあり、大見世では一晩で何十両も払える上客でないと遊べません。さらに、吉原の両端、おはぐろどぶに沿って並ぶ遊郭(9)は最下級でした。

吉原の端にある九郎助稲荷(10)は遊女からの信仰が厚かったそうです。吉原から逃れられない辛い現実を象徴しているようです。

妓楼1階

いよいよ妓楼の中へ。妓楼の入口には張見世(11)があり、この中で遊女が座って客を待っていました。この張見世は格子があり、この格子を籬(まがき)といい、大見世は大籬で天井まで全てを覆う格子、中見世は半籬で上部の1/4が無い格子、小見世は上半分が無い格子で、店のランクがひと目で分かりました。ここで花魁を選び妓楼に入ります。

入ってすぐ、入口を監視するような感じで楼主(店のオーナー)がいる内所(なっしょ)があります(12)。妓楼は全て2階建てで、1階は従業員の生活の場、営業は2階でしていました。内所は2階までの吹き抜けになっていて、1階から2階全ての様子を見れる構造になっています。

内所で周囲を見張る楼主
後ろには神棚、その横の鈴で人を呼びます
大見世の花魁
大籬から客が覗いているが、ほとんどは見物客
妓楼2階

2階へ上がるとすぐに監視するように遣手婆(やりてばば)の部屋(19)があり、周囲に花魁部屋(20)が並んでいました。中央の出格子(21)には花魁用の下駄やお歯黒の道具、水差しなどが置かれていました。その横(22)には掲示物などを貼るスペースもありました。中庭(23)もあり、豪華な作りになっていました。

階段を上がると出格子
周囲には花魁部屋が並びます

炭治郎たちが活躍する、遊郭の全体がなんとなく分かって頂けたでしょうか。どこに鬼が潜み、退治していくのか今後の展開が楽しみです。

遊郭について~その1

遊郭について~その1

「鬼滅の刃遊郭篇」の2回目放送がありました。今回はギャグ満載で面白かったですね。絶対女の子には見えないだろ、と突っ込みつつ爆笑しました。

ところで遊郭ってどんなところか分からないですよね。その存在の是非は横に置いておいて、システムや構造を語ってみたいと思います。遊郭は全国各地にありましたが、ここでは遊郭の代表、江戸吉原の一番栄えた江戸時代の話です。

花魁部屋/花魁と酒を飲んだり宴会したりもして、一晩で、現在のお金で数百万使う人も!

遊郭は、音柱宇髄天元が話した通り、貧しい女性が売られて身を売る場所でした。遊女は6つの階級に分かれていました。美しく着飾り、技術と教養を身につけて最上位の花魁になると上級武士や豪商、文人などの上客がつきました。読み書き、和歌、書道、琴、茶道、活け花などなど、高い教養は大奥に匹敵したそうで、だからこそ、上級武士などの相手も務められたのでしょう。ですので、庶民の間に、吉原遊女に対する蔑視は無かったそうです。

また、吉原では、観光をしたり(女性も観光に来たそうです!)、宴会だけすることもできたので、アニメにあった様に人が溢れ、大盛況を誇っていました。そのため、吉原で働く人は多く、遊女以外の女性や若い男性もいました。だから、炭治郎たちも潜り込むことが出来たのですね。女中やお針子、吉原芸者もいたので善逸のように三味線が得意なら重宝されたでしょう。善逸は現代なら天才ミュージシャンですよね〜。素晴らしい。

2階へ上がる階段/炭治郎達が活躍します!

アニメの中で、何度か「遣手婆(やりてばばあ)」が出てきました。宇髄がイケメンなのでうっとりして炭治郎達を雇ってしまいましたね、、、。この「遣手婆」は、花魁を引退した女性が大半で、遊女の全てを知っており、客のあしらい方の指導や躾、また客をあてがうなど、遊女達の管理をしていました。厳しくて遊女に恐れられていたそう。

遊郭2階/出窓のところに花魁用の下駄や遣手婆のお歯黒の道具がおいてあります。周囲には花魁部屋が並びます。

遊女の年季(契約期間)は最長10年27歳までと決まっていたそうです。年季が明けたあと、吉原を出て自由の身となり結婚したりする人もいますが、そのまま吉原で遣手婆になったり、吉原の関係者と結婚したりと、そのまま残る人もいましたが、年季を待たずに亡くなる遊女も沢山いました。

江戸時代は「江コ時代」だった

10年前に江戸時代のリサイクルをPRしたくて作った画像です。

江戸時代は捨てるゴミは無く、全てリサイクルする循環型社会でした。現代人が必死に目指そうとしていることが、100年以上前に実現されていたんですね。

新聞広告風に作ってみました!

現在ドバイ万博で上映されている映像も江戸の循環をテーマにしています。

EDO Renaissance. Let’s return to Japan at that time

200 years ago, the people of Edo knew how to live in harmony with nature.

It means living in the same rhythm as the earth and making the same circulation as the earth.

I spent the day in line with the movement of the sun, and the things around me were made with gifts from nature such as trees, grass, and soil.

A system that cherishes everything and can recycle not only unneeded items but also ash and human excrement was created by the common people and has taken root firmly.

In order for the earth to be healthy, it is essential to have a healthy circulation in which the water that falls on the mountains as rain flows through the river and reaches the sea, becoming clouds and raining on the mountains again.

What is necessary for earthlings is to regain a circulating life.

自身番と木戸番

6月11日に投稿した「日本橋駿河町三井越後屋呉服店」にもちょろっと出てきた自身番と木戸番ですが、これはもっと近景のCGです。

右側の小屋が木戸番。その名の通り、町の入り口の木戸を開け閉めする人が詰めている場所でしたが、徐々に木戸を閉めることがなくなり、雑貨屋などを営んでいました。このCGにも木戸は無いですね。現代のコンビニのように様々な生活雑貨を販売していました。

左側の小屋は自身番。街の有力者が詰めて街の管理(自治)をしていましたが、その後、人を雇って管理させていました。

書役と定番という事務をする人、小間使いの番人(番太郎と言ったそうです)ら、通常3〜5人が詰めていて、非常時には6〜7人がいました。

番太郎はこの小さな木戸番小屋に住んでいました。昼夜、街の警備や火の用心に当たるほか、罪人を先ず自身番に繋いで罪状を問う取り調べなどもしていました。自身番の上には火の見櫓があり、火事が起こったときはその鐘を鳴らしてみんなに知らせました。

当然、給金も支払われていて、忙しい街では結構な金額がもらえたとか。

また、幕府から庶民へ通達があるときは、町奉行→町年寄→名主→自身番と伝わり、自身番の前に掲示して庶民へ伝えられました。

でも普段は平和な江戸。「自身番将棋」という言葉があって、自身番で暇潰しにやる将棋のことから転じて、「ヘボ将棋」の事を言ったそうです。町の騒動は滅多に起こらないから、呑気に将棋を指していたんでしょうね。

日本橋駿河町三井越後屋呉服店

一日三千両の落ちどころ 昼の駿河町

駿河町(するがちょう)は現在の日本橋辺りです。現在その地名は失われ東京都中央区日本橋室町となっています。(少し話は江戸から逸れますが、古い地名をなぜ変えてしまうのでしょう。地名には歴史があるのに、再開発とかでその地名まで変えてしまうと、その土地に対する愛着というか思い入れが薄れてしまうのに、、、といつも思います。)この場所から富士山(駿河国)が美しく見えたことから駿河町となったようです。駿河国は徳川家ですね。ということは家康の住う江戸城からも当然見えたわけで、毎日故郷を眺めていたのでしょうか。

この作品の視点は現在の室町二丁目の交差点、千葉銀行がある場所から、三井住友信託銀行と三越百貨店を眺めています。左側が三井越後屋両替店、右側が三井越後屋呉服店です。現在とは位置が逆です。さすがの大店、今も当時も一等地に、大きな店構えです。

ご存知の通り三井越後屋は現在の三越百貨店です。当時の高級呉服店は客の屋敷に出向いて商売していましたが、三井呉服店は店で反物を選び、裏で職人がすぐに着物に仕立てました。江戸時代でも、スピード感があり、手軽に買い物できるのは喜ばれたんですね。また、当時はいわゆるツケでの支払いが主流だったのを現金で商売をしました。ツケで払うと金利がかかり、高値になるので、商品と交換に現金で支払えばその分安く済みます。また、反物は1本丸ごと売るのが当たり前でしたが、反物の切り売りを始めたのも越後屋。革命的な商売を始めてここまでの大店になったわけです。2階の窓の格子窓も手が込んでいますし、店の前に立っている看板も大きく、繁盛の証です。

越後屋の手前の小屋は右が木戸番、左が自身番です。木戸番はその名の通り、町の入り口の木戸を開け閉めする人が詰めている場所でしたが、徐々に木戸を閉めることがなくなり、雑貨屋などを営んでました。自身番は街の有力者が詰めて街の管理(自治)をしていましたが、その後、人を雇って管理させていました。交番の前身になりました。

左端にいる、樽を下に置いて何やらやっている男の人はべったら漬け売りです。べったら漬けは東京(江戸)の名産品です。大根の麹漬けで甘しょっぱくて、乳白色の柔らかい漬物です。周りに甘酒の麹が付いていて、それがベタベタするので「べったら」漬け。子供の頃大好きでした!思い出したら食べたくなってきちゃった。

江戸時代の魚河岸は日本橋にありました

江戸の朝は早いです。夜明け前、というか深夜2〜3時から江戸前の魚を積んだ船が次々と魚河岸に到着し、商いが始まっていきます。江戸の漁師が運んだ魚を魚問屋が並べ、朝日が上がる頃には、魚売りが町で魚を売り始めます。

その一 朝の魚河岸「一日三千両の落ちどころ」

当時は現在の様なお店を構えた魚屋さんはありませんから、棒手振(ぼてぶり)と言われるタライを棒に付けた天秤棒を担いだ魚売りが売り歩きました。鮮度を保つために早足で売り歩いたそうです。私はどうしても棒手振の姿を見るとドリフのカトちゃんのコントを思い出してしまうのですが、、、すいません。

魚は庶民も毎日食していました。考えてみると、現在では旅行で行く海沿いの町や港町でしか食せない新鮮な魚介類が、江戸では普通に毎日水揚げされていたんですね。今の都会人よりも江戸人は毎日美味しい魚を食べていたのかも!と思うと羨ましいです。

初めは売るだけだった棒手振ですが井戸端で捌いてくれるサービスもしていました。また、海から遠い地方には塩漬けにして運んだそうです。夜明け前から働いて、お昼(現在の午前9時)に仕事はおしまい。

魚河岸は日本橋の南側にありました。現在、日本橋船着場のある辺りです。ですので魚河岸の背景に見える橋は日本橋。タイトルの「一日三千両の落ちどころ」は一日に魚河岸で3000両が動くという意味です。江戸の経済の中心地、江戸のど真ん中にあったんですね。関東大震災の時に被災し、築地に移転しました。現在は海とともに市場もどんどん追いやられて、豊洲へ、、、。

CGの魚河岸で魚を吟味している侍は魚奉行です。将軍へ献上する魚を選び格安で買って行ったそうです。「目黒のサンマ」という有名な落語がありますが、魚河岸と江戸城は目と鼻の先、魚河岸に美味しいサンマが上がるのを考えると、なるほど〜、座布団三枚!

江戸の町並みを動画にしました!長屋から表通りまでリアルに再現!

江戸の街を動画で紹介します。

自身番から日本橋通りを進んでいきます。両側には漆喰造りの大店が並び、奥には火の見櫓が見えます。火災が発生した時に、裏長屋に広がらないよう、表には漆喰造りの建物を並べていました。しっかりとした都市設計がされていたんですね。

通りには屋台が出ています。寿司屋、天婦羅屋、二八そば、だんごや、お汁粉屋。江戸時代のグルメですね。今は寿司も天ぷらもA級グルメですが、当時は庶民の味です。なんといっても屋台ですから。どれも食してみたいのもばかりです。絶対に美味しかった!と思います。

水滝の小さな屋台が見えます。こちらは甘いお水、砂糖水を飲料水として販売していました。今のジュースといったところでしょうか。疲れた時に飲む水滝は疲れを癒してくれたのでしょう。

水滝屋から裏長屋に入っていきます。小さな長屋がびっしりと並んでいます。部屋の内部に入ると、そこは大工の部屋。4畳半に2畳の台所。狭い室内ですが、今の様に物に溢れた生活をしていないので、それなりに快適に暮らせたようです。電気はありませんからちょっと薄暗いですね。

井戸の前を通り、裏通りに出ます。裏通りは庶民の生活用品などを売るお店が並んでいます。床屋(浮世床)、酒屋、足袋屋、古着屋、八百屋、米屋、小間物屋などが並びます。

最後は江戸の楽しみ、隅田川の花火で動画は終了です。隅田川の右側に見える不思議な建物は両国広小路の見せ物小屋です。