吉原芸者VS柳橋辰己芸者→深川芸者

鳥文斎栄之筆 「青樓藝者撰・いつとみ」
18世紀 大判錦絵 重要文化財 
3枚続のうち吉原の芸者を描いた3枚続の中の1枚
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
国立文化財機構所蔵品統合検索システム

江戸の花柳界の歴史話です。江戸時代の花柳界の二大勢力は吉原芸者と柳橋辰巳芸者で、お互いにライバル意識が高く、張り合っていました。

吉原芸者は、元々は遊女の中から芸事の達者な人を色事から分離させて、芸事に専念させるために誕生しました。化粧は濃く着物は大柄で派手。花魁についているので気位が高かったのですが、吉原から出ることが出来ませんでした。

辰巳芸者の名前の由来は、吉原の位置からわざと反対側の辰巳方角ある柳橋に店を開き、桶屋(芸者の紹介所)が沢山存在していたところから来ました。辰巳芸者は、身売りをされた訳ではないので、芸を売っても体は売らない粋でオキャンと、その気質は正反対でした。髪を水で結い、薄化粧をして、着物は地味な小紋。歌と踊りを売りにして、色々な座敷に呼ばれ、客の好みの歌を三味線で弾くなどして、辰巳芸者の人気は高くなりました。町も自由に歩けたので町を歩いていると、男たちは「粋で美人で目の保養になる」と楽しみ、町娘は、流行りの簪や着物の柄を参考にしたりしていました。

喜多川歌麿 「青樓仁和嘉女藝者部・大万度 荻江 おいよ 竹次」
1783年大判錦絵  吉原女芸者と男芸者を描いた作品
北尾重政筆 「東西南北之美人・東方乃美人 仲町おしま、お仲」
18世紀大判錦絵
深川門前仲町の芸者二人。江戸時代中期に流行した「灯篭鬢」と呼ばれる鬢を大きく張り出した髪型が特徴的である。
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
国立文化財機構所蔵品統合検索システム


辰巳芸者の元祖「菊弥」が一番人気でしたが、他の芸者仲間から嫉妬されて、江戸から追放されてしまい、深川八幡門前で茶店を開きました。その頃の深川は、寂しい所で、岡場所しかないパッとしない所に人気の芸者が茶店を開いたのが噂になり、男の客がドット押し寄せ、深川は花柳の町に発展しました。辰己芸者と深川芸者は、同じ一人の女性が元祖ということになります。
伊藤博文などは、柳橋芸者を小料理屋座敷に呼び、通いつめていたので、明治政府高官も真似をして柳橋に通ったので、いつしか吉原は衰退してしまいます。

岩佐又兵衛作「三十六歌仙額」を見に埼玉県立歴史と民族の博物館へ

先日、「埼玉県立歴史と民俗の博物館」に、岩佐又兵衛勝以の「三十六歌仙額」(重要文化財)を見に行ってきました!9月から3期に分けて展示されていたのですが、色々スケジュールが合わず、やっと最終日の前日に行けました。

この作品は川越市仙波東照宮所蔵の作品ですが、保存の為と思われますが、現在は県の博物館に収蔵されています。思ったより博物館が遠かったので、川越の博物館に置いといてよ〜、自転車で行けるのに〜、とちょっと文句言いつつ、始めて「埼玉県立歴史と民俗の博物館」に行きました。埼玉なのに、結構ちゃんとした博物館で埼玉県で出土された品を展示してあり、日本の歴史の中の埼玉地方の関わりなどわかりやすく展示してありました。

埼玉県立歴史と民俗の博物館の展示リーフレットより
裏に署名があります

お目当ての「三十六歌仙額」は美術展示室にあり、1点づつはそんなに大きくないのですが、ガラスケースの手前に斜めに展示されていて、非常によく鑑賞出来ました。ガラスケースの奥の壁に展示されているだろうと予想して行ったので、嬉しかった!まじまじと手に取れるくらいの距離で見られるのは貴重です。ガラスにへばりついて見てきました。

この作品は、川越の喜多院の隣にある仙波東照宮が寛永15年(1638年)の火災で消失したため、三代将軍家光の命で拝殿が再建され、そこに奉納するために制作されました。寛永17年6月17日に拝殿が落成しているのでその年1640年の作ということになります。又兵衛、忙しかったのか、ギリギリまで仕上がらず、脅迫めいた催促の手紙が残っているようです、、、。なんか人間味があって良いですよね。

1640年の作品ですし、仙波東照宮も結構ボロい、いや、古いので作品も痛みが激しいかと思いきや、とても綺麗でした。380年経ってますし、しかも神社の拝殿にあったものなのに保存状態は良好でした。とても美しいですし、細かいデイテールもはっきり残っていて、見応えがありました。今回は36作品のうちの三分の一しか見れなかったので、次回展示される際にはまた行きたいと思います。

岩佐又兵衛は、6月18日に書いたブログ「洛中洛外図屏風(舟木本)」に詳しく載せていますが、波乱の人生だった為か、死後、浄瑠璃の作品になったりして、ほぼ伝説の「浮世又兵衛」という画家が出来上がってしまい、実在の人物だったのか、架空の人物なのか謎に包まれていましたが、明治19年(1886年)に仙波東照宮の宮司が拝殿に飾られていたこの作品に「寛永拾七年庚辰年六月十七日 絵師土佐光信末流岩佐又兵衛尉勝以図」と記入されているのを発見し、その存在の謎が解かれるきっかけになりました。

ということで、岩佐又兵衛を知るには重要な作品に出会うことが出来てよかったです。ますます又兵衛を知りたくなりました!

埼玉県立歴史と民俗の博物館公式HP

アクセス:東武アーバンパークライン(野田線)大宮公園駅下車 徒歩5分(住宅街を歩きます。近くて楽です)

吉原と浮世絵

吉原は浮世絵にたくさん描かれています。みなさん美人は好きですからね〜。また気軽に通えない人にとっても、吉原の浮世絵は楽しみだったのでしょう。現代のプロマイドみたいな感じです。

その中でもちょっと異質な、こちらの「名所江戸百景・浅草田甫 酉の町詣」がお気に入りです。

名所江戸百景・浅草田甫 酉の町詣
歌川広重 安政4年(1857) 大判 錦絵
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)国立文化財機構所蔵品統合検索システム

私は北斎が大好きです。なので広重はそんなに興味がなかったのです。全然タイプが違いますから。大胆で力強く茶目っ気もある北斎と、理路整然、真面目すぎない?といった印象の広重。変人と武士。と思っていたのですが、数年前に太田美術館で広重の絵を見た時に、ものすごく綺麗!と感激しました。なるほど、これは幅広く愛されるよね、美しいものをやっぱり人は欲するよね。

こちらの浅草田んぼ。シンプルで清々しい。吉原の格子の中から外を眺める猫。かわいい。でも本当は外に出て自由に歩き回りたい遊女の心情を代弁しているのでしょうか。

実は以前浅草に住んでいたのはこの辺りなんです。もちろん現在、浅草に田んぼなんかありません。なので風景は全くの別物です。ビルだらけで富士山も見えないし、、、。

鷲神社すぐ近く、11月の酉の市は楽しみでした。熊手を売るたくさんの屋台と威勢のいい掛け声を聞いて雰囲気を存分に味わいながら、小さい神社の熊手を買いに行きました。下町のお祭りは季節の風物詩。三社祭、朝顔市、ほおずき市、そしておとりさま。コロナが終息したら久しぶりに行きたいな。ちなみに今年は二の酉までだったんですね。

吉原もすぐ近くです。この絵は吉原からおとり様に行く人たちを眺めていますから、ほんとに近いんですよね。吉原は現在でもちょっと近寄れないのでほとんど行ったことはありませんが、徒歩五分以内ですが、遊女はそのおとり様にも行けなかったのでしょうか、、、。

CG制作の裏話(?)小江戸川越

古い街並みを制作するのに参考になるのは当然古い街並みです。

川越に住んでおりますので、素材が身近にあるのはラッキー!というか歴史のある街だから引越して来た、というか。いくら綺麗で整備されていても、新しい家や店ばかり並んでいるのはどうも落ち着かないのです。ごちゃごちゃしていても昔からの人の営みを感じられる文化のある土地が好き。

川越に引越してかなり経ちますけれども、以前は浅草に住んでいました。浅草、大好きで、今でも時々浅草に行きたくなります。でも、浅草と同じくらい川越も好き。なんといっても江戸より古い歴史があり、当時の物が残されているのは最大の魅力です。残念ながら浅草は東京大空襲で焼け野原になってしまったので、古い建造物が遺されているは浅草神社の社殿くらいでしょうか、、、。

蔵造りの街並み

川越のメインストリート、有名な明治時代の蔵作りの商店が並ぶ街並みは壮観です。ちょっと裏道に入っても古い醤油蔵があったりと、歴史と文化が残されています。(ご近所でミニ観光ができるのも楽しい)日本建築だけで無く、かわいい洋館も味わい深いです。

メインストリートから数分歩いたところ、平安時代に創建された喜多院には江戸城の一部が移築されています。あまり知られていないのでは無いかと思いますが、ここでは本物の江戸城紅葉山にあった「徳川家光公 誕生の間」「春日局化粧の間」が見ることができます。皇居に行っても見れないのに、、、。江戸好きの人には是非ぜひ、喜多院に来て本物を観て欲しいです!さすが小江戸です。

また、川越城は嘉永元年(1848年)に建てられた本丸御殿の玄関・大広間・家老詰所が残っています。どこぞのコンクリートで再建された天守閣よりも余程、当時の城の規模や風格が伝わります。喜多院もそうですが、本物の廊下の広さとか木の太さとか板戸の大きさとか、やはり本物観ないと分からないことは多いですよね。

先日行ったときは、緊急事態も終わって、蔵造りの街は混んできましたが、喜多院や本丸御殿は比較的空いていました。もったいない!本当に見て欲しい。食べ歩きも楽しいけどね。

埼玉県指定文化財 川越城本丸御殿 (東日本唯一の本丸御殿遺構)
本丸御殿内部の廊下

こういった建造物は本物の質感、空気感も含めて全てCGの素材になります。また有名な重要文化財だけでなく、古い木造の民家なども多く残っているので、川越に越してきた頃は、あちこちに残る素材集めのために川越を奔走していました。ということで、江戸時代のCG作品には密かに川越の町が含まれているのです。

世界ふしぎ発見!

先週の土曜日6月19日放送の「世界ふしぎ発見!歴史を変えた名城スペシャル」で家康が作った江戸城の再現CGが放送されました!

江戸城の初代天守と五連続枡形虎口のCGです。番組でも紹介されていましたが、城の作りからその時代背景を窺い知ることができておもしろいですね。戦乱の世だからこそ作られた、大きな天守閣と敵を欺き攻撃するための仕組み。

五連続枡形虎口は5重に門を配置し、門と門の間に敵を閉じ込め攻撃します(これを「江戸返し」というそうです)。鉄壁の防御ですね。また、高さ約68m(推定)の大天守1つに小天守が2つある連立式天守は漆喰で真っ白に塗られ美しく、徳川の力の象徴でした。逆に泰平の世になってからは天守閣は再建されなかったことが、江戸時代の平和の象徴になりました。

家康の頃の大きな天守閣が現存していたら、どんな感じだったのかと想像を巡らさずにはいられませんよね。現在の丸の内ビル群の中にそびえていたら、堂々とした佇まいに威圧感を感じるのでしょうか。それとも高層ビルに埋れてしまっているのか、、、。

私は当時から残っている国宝の城は松本城しか見たことはありませんが、その重厚感と迫力、美しさは格別です。江戸城はその何倍ですので現代の大都会の真ん中でもきっと美しく威厳を持って鎮座していたでしょう。

北斎 諸国瀧廻り

諸国瀧廻り・木曽路ノ奥阿彌陀ヶ瀧
しょこくたきめぐ きそじ おくあみだがたき  大判錦絵 天保4年頃 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)国立文化財機構所蔵品統合検索システム

葛飾北斎ってやっぱりすごいです。日本を代表する画家ですし、作品数も多いし、印象派に影響与えちゃってるし、ロシアのどこかのマンションの壁面一杯に神奈川沖浪裏とか描かれちゃったり、語っていいのか?というぐらいの巨匠ですよね。

これぞ芸術家、って感じの絵に対する執着心と変人伝説。本人に出会えても(たとえ尊敬してたとしても)凡人の私では友達にはなれなかったかも知れません。仏像背負ってブツブツ念仏唱えて歩いていた、とか、あれだけ売れっ子なの常に貧乏とか、名前もお金に困ると売っちゃうからコロコロ変えちゃうし、当時の芸術家名鑑に住所不定って記載されてる、、、。エピソードも超一流です。

北斎はとにかく作品が面白い。当たり前過ぎますが、北斎展に行って、作品数もものすごく多かったのですが、夢中で観ていて、疲れ切って仕方ないから出口に向かったのですが、気がついたら3時間ぐらい見ていました。でも全く飽きない。体力がもっとあったらずっと見ていたかった。北斎は面白い。楽しい。大好き。単なるミーハーです。

北斎の魅力の一つは構図の大胆さ。滝の上の丸い水の塊は何?こんな滝ないでしょ。その塊からドバーっと滝が流れてくる。落差約60m。滝のダイナミックさとか迫力とかちゃんと伝わってくる。そしてデザイン的。日本の絵画は写実性と抽象性が絶妙のバランスになっているんですね。

滝の前でお弁当広げてる人物もいい。こんなすごい滝の前で、きっとマイナスイオンを浴びながら滝を楽しみ、おしゃべりに興じている。北斎の人物は人生を謳歌しています。

阿弥陀ヶ滝は岐阜県郡上市にあり日本の滝100選に選ばれています。遊歩道が整備されていて、滝の近くまで行けるそうです。絵の中のお弁当食べてる崖は無さそうですが、、、­アフターコロナ に行きたい場所がまた増えてしまいました。

3DCGで江戸橋から望む日本橋と江戸城

3DCGで江戸橋から望む日本橋と江戸城

こちらのCGは江戸橋から見た日本橋です。その奥の橋は一石橋。
橋のさらに奥には江戸城が見えます。
日本橋を右に行くと越後屋(現在の三越百貨店)、左に行くと銀座方面です。
江戸城の背後には富士山が望めますね。富士山バックの江戸城なんて、当時は美しい風景が見られたのでしょう。残念ながら現在の日本橋からは高速道路と銀座のビル群しか見えません、、、。
美しい木造の日本橋。当時の大工さんの技術の高さがうかがえますね。江戸東京博物館で実物大で再現展示されていますが、これが東京のど真ん中に掛っている姿を見てみたいものです。
日本橋は五街道の起点で、ここから東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道が伸びていました。
現在も東京の中心ですが、5つもの街道の始まる場所ですから、そりゃあ、経済的に発展するのも当然です。常に賑わい、江戸っ子の誇りでもありました。

江戸城の天守風に見えるのは実は現存する富士見櫓です。この作品は1800年頃の江戸の様子なので天守は存在せず、富士見櫓がその代わりを果たしていました。ちなみに、天守がかつてあった場所は、もう少し右側、日本橋の右のたもとを上に見上げた辺りだったそうです。
巨大な天守は壮大で威厳があって、徳川の力の象徴でした。