江戸の着物

鬼滅の刃の遊郭でのバトルも佳境ですね。今週は良いところで終わってしまった!堕姫の攻撃が帯、って凄いな、武器になるんだ〜。確かに重いし動きが制約されちゃうからある意味武器、、、。でも当時の人は着物が普段着だったわけで、もっと緩い感じで来てたそうです。そんな江戸の人の着物はどんなだったのか見てみたいと思います。

「美人と水売り」 歌川豊国筆 18世紀 大判錦絵
街で評判の娘さんがモデルでしょうか。モデル並みのスタイルですね。
水売りは、夏に冷たい水に白玉と砂糖を入れて売っていました。
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
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着物の原型はすでに縄文時代からあったようですが、平安時代には百人一首の姫の絵のような十二単があり、かなり今の着物に近づいています。室町時代には現在の着物の形の小袖(袖幅がやや狭く、袖丈が短い)ができました。昔は位や身分によって衣服が決められていました。一目見てその人がどんな人なのか分かるようにしていたんです。

江戸時代も男性の着物は身分で決められていました。武士は小袖に裃(かみしも)か羽織、袴。商家の主人は紋付、小袖、絽(ろ=夏の薄い透ける着物)、郡内紬(ぐんないつむぎ=山梨県の郡内地方の織物)、縮緬(ちりめん=強くよった糸で表面をデモボコに織った織物)が許されていましたが、贅沢をすると罰せられました。丁稚は麻か木綿のお仕着(主人から支給される着物)。手代や番頭になると前掛けを許されました。前掛けできるようになると出世したってことです。大工や左官などの職人はふんどしに半纏でしたが、のち紺の木綿半纏に股引、腹掛けになりました。この半纏の藍染を見た外国人が「ジャパンブルー」と称賛し、現在でも日本のイメージになっています。海に囲まれた島国だけれども南国のように明るい青ではなく、深い藍。良い色ですね〜。このように服装が差別化されていたので、時代劇を見ても一目でどんな身分かわかります。鬼滅のお館様も羽織袴で明らかに武士ですね。

では女性はどうだったのでしょう。女性の場合は身分よりも立場によって服装が違いました。結婚しているかどうか、年齢がどうか、ってことです。女性は小袖を着ています。娘時代は振袖を、結婚したら留袖(短い袖)を着ました。19歳で元服なので、それを過ぎたら結婚していなくても留袖を着たようですが、いつの時代も女性は若く見られたいもので、二十歳を過ぎても振袖の人もいたそうです。現代の成人式に振袖、というのは本当は違うんですね。十代までの着物だったんです。

「山東京伝の見世」 歌川豊国筆 横大判錦絵
この店は戯作者、現在の京橋にあった山東京伝の店で紙製のキセル入れやタバコ入れを売っていて当時評判でした。
中央に立っている女性は振袖なので娘さん、座っているのは留袖なのでお母さんでしょうか。
相手をしているのは前掛をしているので番頭か手代。
立っている男性は袴は履いていませんが、刀を持っているので武士の着流し(袴を履かない、カジュアルなスタイル)。
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堕姫が武器にする着物の帯ですが、江戸の初期は細帯でした。着物にお端折り(帯の位置で折り返して長さを調整する部分)もなくて、この方が断然楽ちんだったと思います。泰平な世の中になったからでしょうか、お端折りもでき、帯も太くなって色々な結き方が生まれました。おしゃれを楽しんだんですね。

さて、堕姫は遊女です。遊女の着物の帯、遊女だけが帯を前で結んだんですね。脱ぎ着しやすく、仕事上この方が都合が良かったってことです。当時の花魁はファッションリーダーでしたが、いくら花魁が評判で美しくても、堅気の女は必ず後ろ帯です。美人画などの浮世絵を見る時も帯を見れば遊女かどうか判別ができます。

「雛形若菜初模様・玉や内しら玉」礒田湖龍斎筆 18世紀 大判錦絵
当時の有名な花魁。帯は前です。
当時の美人画は若女性のためのファッション誌的な役割もありました。
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歌川国貞(三代目豊国)の浮世絵を購入!

先日主人が浮世絵を購入してくれました。クリスマスだから!・・・渋すぎるけど嬉しい。

初めて絵画を購入して、しかもネットだったので、、、大丈夫??鑑定団の音楽が頭を流れてしまいましたが、、、裏にインクのシミがあるし、汚れ具合も古そうだし、サインなんかも図版と見比べたりして、多分大丈夫。本物。

歌川国貞 役者絵 大判錦絵 江戸時代後期

歌川国貞(三代豊国)の晩年の作品です。構図も良いし、背景には菖蒲も描かれ、縁起も良さそう。役者絵です。爽やかでキリッとした美男美女(女形)、構図も素敵です。

版画とは思えない細かいディテールを手元でマジマジと見てしまいました。髪の毛1本1本を描いているのではなく、彫って刷っている。髪の生え際は1mmに5本も髪の毛が描かれています。彫師の技ですね。微妙なグラデーションは摺師のテクニックによるものです。木版画でよくここまで作れるな、といつも感心してしまいます。彫師や摺師によってその作品の出来が左右されるので、作家のお気に入りの職人さんがいたそうです。この作品には彫師の名前が入っていますが、国貞の晩年の作品には彫師や摺師の名前が入っていることが多いようです

当たり前ですが、本物には惹きつけられてしまいます。音楽も録音で聴くのとライブに行くのとでは、全く違うのと同じですね。絵画も生で見ると迫力というか、図版やネットで見るのと別物ですね。

国貞は天明6年(1786年)江戸本所五ツ目(現在の江東区亀戸5〜6丁目辺り)の生まれ。子供の頃から浮世絵が好きで教わらずに浮世絵を描いていたそうです。15〜16歳頃に歌川豊国に弟子入り。その才能は豊国も認め、期待されていました。その期待通り、23歳(文化4年1807年)頃から読本の挿絵をはじめとして活躍します。錦絵も好評で、特に美人画は躍動的でイキイキと生活していた女性が粋に描かれています。

文政8年(1825年)豊国が没し、二代目は養子の豊重が継きますが、天保6年(1835年)頃に逝去したか、引退をしたようで、弘化元年(1844年)国貞が三代目を継ぎます。なのに、作品には「国貞改二代目豊国」と書かれているものも多く、混乱します。どうやら二代目の襲名には一悶着あったようです。実力は国貞なのに、養子ということで豊重が勝手に二代目を名乗ってしまい、さらに家庭の事情なんかもあったりして、揉めていたようです。現在の美術研究では混乱するので国貞=三代目にしているようです。当時の人は住居にちなんで「亀戸豊国」と呼んでいたそうです。こっちの方が分かりやすいかも!正直、名前変えるのやめてほしい、、、。過去の人に言ってもしょうがありませんが、分からなくなっちゃいます。北斎がその代表格ですけど、、、。

北廓月の夜桜 歌川国貞 横大判錦絵 (天保〜弘化頃)
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)国立文化財機構所蔵品統合検索システム
吉原の大門です。江戸の人々が生き生きと描かれ、賑わいがよく分かります。

襲名後、晩年は職人と連携して版画の高度な技法を誇示する工芸的な作品が多くなりますが、元治元年(1864年)に79歳で亡くなるまで精力的に作品を制作し、当時の浮世絵界を牽引する一人として活躍しました。